ガラケーじゃないと書けないんです。
――俳優や映画監督、脚本家として幅広く活躍されていますが、今回の著書はWebでの連載をまとめたコラム集。忙しいなか、書き続けることは負担にならなかったですか?
映画脚本も含めて、僕の中に、どうにも書く欲求があるんです。演じることとは別の欲求というか、”別腹”ですね。
――ほぼ“ガラケー”で書かれたと聞いて驚きました。
慣れですね。逆にデジタル方面には疎いので、ガラケーじゃないと書けないんです。話が飛んでしまいますが、よく街で「佐藤二朗さんですか?」と、声をかけられることがあります。あるとき静岡で女子高生たちが少し離れたところで「あの人、佐藤二朗に似てない? でも、こんなところにいるわけないか」って噂話をしているのが聞こえてきたことがありました。
僕みたいな普通のオジサンは、似ている人がいても不思議ではないですから。でも、彼女たちは僕がガラケーを出した途端、「あっ、佐藤二朗だ!」って、ガラケーを使っているか否かで判断していましたね(笑)。
――書くことも好きとのことですが、書くことが俳優業に生かされるようなことはあるのでしょうか?
それはあんまりないですね。だから、やっぱり別腹なんです。どこかで関連しているのかもしれないですが、それは無意識のなかでのことで、僕の目に見えるものとしてはないと思います。
ただ、書くことで発見はありますよね。さっき少し出た若い人との距離感というか付き合い方という点では、人の名前の呼び方って面白いなと思って。自分が無意識にやっていたことを、コラムで改めて文字にして気づいたのですが、ちょっとした呼び方の違いでその人との距離が一気に縮まったり、いつまで経っても縮まらないことってあるじゃないですか。
『鎌倉殿の13人』でご一緒した坂東彌十郎(やじゅうろう)さんのことを、僕は当初「坂東さん」と呼んでいたら、ご本人から「ヤジュでいいですよ」と言われましたが、いきなり「ヤジュ」はさすがにハードルが高い。それを察して坂東さんは「ヤジュさん」でいいですよ、と言ってくれましたが、呼び方が変わっただけで心の距離が縮まった気がしましたし、現場での芝居もやりやすくなったようなところがありました。もちろん、敵対する役であれば一切口を利かないやり方もあって、これはいい悪いではないんですけどね……。
上の名前より下の名前、「さん」付けより「呼び捨て」の方が距離が縮まる。でも、急に距離を縮めようと呼び捨てにすると、“事故”に遭うこともあります(笑)。無意識でやっていることも書くことで改めて感じることがあって、そういう意味ではどこかで演じることに生かされている部分はあるのかもしれません。