本能寺の変を知らせた茶屋四郎次郎

同日払暁、信長がいる本能寺に明智光秀の軍勢が殺到。信長のもとにはわずかな手勢しかおらず、一万三千の明智軍の襲撃を受けた本能寺は炎上、信長は自刃して果てた。

家康に本能寺の変の第一報を伝えたのは、京都の商人・茶屋四郎次郎清延だとされる。

茶屋家が京都に店を構えるようになったのは、四郎次郎清延の父・中島明延のとき。明延は、信濃の戦国大名・小笠原長時の家来だったが、戦で傷をこうむったため武士を廃業し、主君・長時の支援をうけて京都で呉服商をはじめた。室町幕府の十三代将軍足利義輝は、小笠原長時を弓馬の師としており、その関係から義輝は明延の店に立ち寄り、茶室で茶を飲んだ。そんなことから明延は「茶屋」を屋号としたという。

明延はまた、家康の祖父・松平清康とも取引きがあり、その関係から息子の清延と家康の交際がはじまったらしい。

「茶屋由緒書」によれば、元亀三年(一五七二)の三方原の戦いをはじめ、清延は生涯に五十三度も徳川方として合戦に参陣したとある。武器や物資の提供のためだけでなく、後述する小牧・長久手の戦いでは敵の騎馬武者を仕留めたと伝えられる。大名家の御用商人が武士として活躍するというのは、戦国の世にあってもかなり珍しい。

家康と行動を共にしていた清延だが、ちょうど堺から京都に戻ってきた。が、町はいつもとは異なり、大勢の殺気だった兵であふれかえっていた。京都新町百足屋町に大店を構えていた清延は、店の者から「明智光秀の軍勢が乱入してきて本能寺にいる織田信長を攻め滅ぼした」という事実を聞く。

あの織田信長が感激した徳川家康の完璧すぎる接待の詳細…そして接待を大失敗した明智光秀が決意した本能寺の変_4
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予想だにできなかった驚愕の事態である。

清延は、家康を連れて堺の町を案内していたのだが、明日、家康が京都に戻り、清延の屋敷に泊まる予定になっていた。そこで宿泊の準備のため、家康一行から離れて一足先に都に戻り、このような状況に遭遇したのだ。

光秀のねらいは、主君信長・信忠父子の命。それを奪った今、光秀が京都で乱暴狼藉を働く可能性はない。だから自宅で息を潜めているのが、清延にとって一番安全な身の処し方であった。しかし清延は、このとき最も危険な行動をとった。店からありったけの銀子をかき集め、革袋に詰め込むや、馬に飛び乗って家康のいる堺へと引き返したという。

もちろんそれは、家康に本能寺の変を知らせ、彼を堺から領国へ逃がすためだった。

清延がこうした行動に出たのは、清延が単なる商人ではなく、歴戦の兵でもあったからだろう。いずれにせよ、河内の枚方まで清延が駆けていくと、偶然、本多忠勝の一行とかち合った。徳川の先発隊として家康に先行して、京都に向かっていたのだ。忠勝は、後に徳川四天王と呼ばれる徳川家の猛者である。

心強い味方を得た清延は、忠勝の護衛でさらに先を急いだ。

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『徳川家康と9つの危機 』(PHP新書)
河合敦
大谷翔平選手の脅威のパフォーマンスの要因の一つは両利き使いによる脳の切り替え!? 両利き人間がこれからの時代を背負っていくのは本当?_5
2022年9月16日
1188円(税込)
‎256ページ
ISBN:978-4569853048
いま、「徳川家康」像が大きく揺れ動いている!

徳川家康といえば、武田信玄に三方原の戦いで完敗した際、自画像を描かせ、慢心したときの戒めにしたとされる。「顰(しかみ)像」として知られる絵だが、近年、それは後世の作り話との説が出されている。それだけでなく、家康に関する研究は急速に進み、通説が見直されるようになっているのだ。
一例を挙げれば、家康の嫡男・松平信康が自害に追い込まれた事件は、織田信長の命令によるものとされてきた。しかし近年では、その事件の背景に、徳川家内部における家臣団の対立があったことが指摘されているのだ。
本書はそうした最新の研究動向を交えつつ、桶狭間の戦い、長篠の戦い、伊賀越え、関東移封、関ヶ原合戦など、家康の人生における9つの危機を取り上げ、それらの実相に迫りつつ、家康がそれをいかに乗り越えたかを解説する。そこから浮かび上がる、意外かつ新たな家康像とは――。
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