弓と槍で防戦した信長
6月2日の早暁、光秀の軍勢は本能寺を急襲するが、近年の研究によると、この日、光秀は本能寺へは向かわず鳥羽(京都市)に控えていたという説もある。これもまた謎の一つだが、信長がなぜわずかな手勢で本能寺に宿泊したことも謎とされている。
『信長公記』によると、このとき本能寺に滞在していたのは「お小姓(しょうしょう)衆二、三十人」。小姓とは日常、貴人のそばに召し抱えられ身の回りの世話をする者で、織田軍の主力部隊ではない。
光秀軍が閧(とき)の声を上げながら本能寺に乱入すると、信長の側近・森蘭丸は信長のもとへ走った。信長から誰の軍勢かと問われた蘭丸が「明智の軍勢と見受けます」と答えると、信長は「是非に及ばず」と言って、弓を取り防戦した。
信長は矢が尽きるまで弓を張り、さらに槍で戦った。しかし、やがて肘を槍で突かれ負傷した。すると、女房衆を脱出させた後、御殿(ごてん)に火を放った。そして、奥に入り自害した。こうして、戦国時代の風雲児・信長は天下統一を目前にして本能寺の変で光秀によって屠(ほふ)られたのである。