鳥羽・伏見の戦いに敗れる
近藤の虎徹が真作であったか贋作であったかは定かでないが、この刀が名刀であったことはまちがいない。なぜなら、池田屋事件の後、尊攘派志士と闘った隊士の刀の刃は曲がったり刃こぼれしたりした。ところが、近藤の刀だけは刃こぼれもなく、鞘にすっと納まったという。
池田屋事件で新選組は天下にその威名を鳴り響かせた。事件後、近藤以下新選組の隊士全員が幕府から幕臣に取り立てられた。だが、新選組はこのときが最盛期にあった。その後、孝明天皇が崩御すると、一気に討幕運動が広まった。
池田屋事件によって尊攘派志士の多くが犠牲になったことで、逆に幕府に対する反発が高まったという見方もある。つまり、幕府存続のために尊攘過激派の陰謀を未然に防いだ池田屋事件だが、それがかえって幕府崩壊を速めることになったのだ。
江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜が大政奉還し、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発すると、新選組は旧幕府軍として参戦するが、薩摩軍の砲撃を受けて多くの犠牲者を出した。旧幕府軍は大敗し、新選組は海路を江戸に帰還。
近藤は官軍の東山道軍(ひがしやまどうぐん)を迎撃するため、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を組織し甲州(山梨県)に出兵した。しかし、近藤は敗走し、八王子(東京都八王子市)まで落ち延びた。その後、流山(千葉県流山市)で投降。
慶応四(1868)年4月25日、板橋宿(東京都板橋区)で斬首となったが、その際、近藤は「虎徹で斬って欲しい」と願い出たといわれるが、その願いはかなわなかった。
文/刀剣ファン編集部
長曽祢虎徹写真/国立博物館所蔵品統合検索システム
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