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近藤勇が池田屋へ向かう

幕末、京の市中で尊攘派志士から恐れられた警察組織があった。京都守護職会津(あいづ)(福島県会津若松市)藩主・松平容保(まつだいらかたもり)配下の新選組(新撰組とも)だ。その名を一気に轟かせた事件が、池田屋事件である。

文久三(1863)年に起きた八月十八日の政変(会津・薩摩(鹿児島県)両藩などが長州(山口県)藩を中心とした尊攘派を京都から追放したクーデター)の際、七卿(しちきょう)とともに長州に敗走した親兵隊総監の宮部鼎蔵(みやべていぞう)は、その後、公武合体を推進した中川宮朝彦(なかがわのみやあさひこ)親王と容保の暗殺を企てた。

この宮部らの不穏な動きを察した容保は、新選組に市中見回りを命じた。しかし、宮部の所在は杳(よう)としてつかめなかった。翌元治元(1864)年6月5日の早朝、新選組は宮部の潜伏先をつかみ、四条小橋西詰で道具商を営む桝屋喜左衛門(ますやきざえもん)宅を襲い、喜左衛門を壬生の屯所(とんしょ)に連行した。
 

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厳しい拷問によって喜左衛門こと尊攘派志士の古高俊太郎は、宮部らによる陰謀を自白した。それによると、宮部ら尊攘過激派は6月24日前後の夜に京都市中に火を放ち、参内するはずの中川宮や容保を討ち、さらに佐幕派の大名や公卿を殺害した後、天皇を奪って長州に連れ去る計画だった。

その後、内偵によって池田屋か四国屋で宮部らが会合することがわかり、新選組はただちに出動し、祇園会所(ぎおんかいしょ)で会津藩の援軍を待った。しかし、約束の午後8時になっても援軍の姿は見えない。すると、新選組局長・近藤勇は襲撃を決断し、副長・土方歳三以下28名を四国屋に向かわせ、残りの5名を率いて三条小橋にある池田屋へ向かった。