女手ひとつで兄と私を育ててくれた母の存在

――地方ロケに行っている間などは、誰がお子さんたちの面倒を見ているのでしょうか。

母が面倒を見てくれています。実はもうずいぶん前から母と同居してて。母も私が小学校5年生の時に離婚をして1人で住んでいたので岐阜から呼び寄せました。だから母と私と娘3人の5人でわいわい暮らしてます。

母も私も子供たちと同じ、朝6時には起床して夜は21時には消灯しています。規則正しい生活のおかげで母は喘息がよくなったり、太り気味だったのがスリムになったりと健康的になりましたね。

私、親元を19歳で離れて働いてるから、その時から感謝の多い母へは仕送りはしていました。 お給料をもらえるようになってからは母の誕生日に車をあげたりもしました。お父さんはもう新しい家庭があるから必要がないし、母だけなので金銭的には問題なくやれていますね(笑)。

kuma


――熊田さんのお母様も1人で娘を育てて大変だったのですね。

私には兄もいるので、母は私と兄を女手1人で育ててくれました。離婚前までは専業主婦でパートの仕事くらいしかしてなかったので、離婚後に印刷会社の正社員になったものの「どんなに頑張っても、この間入ったばかりの男の子の方が新しい機械を触らせてもらってた」とか、女性が第一線で働くことの大変さを身にしみて感じていたようです。

だからこそ私の仕事への理解は深いですね。

――かつてはグラビアの道を進もうとした熊田さんのことを、お母様は止めたんですよね。

そうですね。母には中学生くらいの頃から「手に職をつけた方がいい」と言われてて看護師を勧められていましたが、私は芸能の仕事、それもグラビアの仕事に憧れてたんです。

実は初恋の男の子がコンビニで週刊誌のグラビアを立ち読みしてるのを見て「私もああなりたい!」と思ったのがきっかけだったんですけどね(笑)。

それで高2の時にミスヤンマガのコンテストに出てグランプリ直前までいったんですが、母の許可が得られず決勝前のグアムでの撮影ができなかったんです。「水着の仕事に就くために看護学校に行かせたわけじゃない!」って反対されて。その時すごく落ち込んで、部屋で泣いてる姿を見て、母も後悔したみたいなんですよね。

――その後再び、グラビアへの想いが再燃したのは?

母から言われた通り、看護系の専門学校に行ったんですが、やはりグラビアへの思いが捨てきれてないまま生活していて。その時たまたまオーディション雑誌の『Audition』を見たんです。

タレント募集欄に「年齢制限18歳から19歳」と書いてあって。これはもう、今受けないと一生後悔すると思って今の事務所に連絡したら、採用報告をいただいて。その時は母も「あなたの好きにしなさい」と認めてくれて、それこそ“カバン一つで”上京しました。