「墨を溶かしたように黒く、油っぽかった」
2021年の夏に速報まで流れた、黒い雨を巡る救済対象拡大のニュースを記憶している人は多いだろう。確かに、菅義偉首相(当時)の政治決断によって、被爆者援護行政は大きく転換された。それなのになぜ、「黒い雨を浴びた」と訴える河野さんは、「被爆者」に認められないのか。
この疑問に答えるためには、時計の針を1945年8月6日に戻す必要がある。
米軍が広島に原爆を投下したあの日、当時8歳で国民学校3年だった河野さんは、爆心地から西に約30キロ離れた旧吉和村にいた。校庭に整列して朝礼を待っていたところ、「ピガーン」と目の前が光った後、「ドカーン」という爆音がし、窓ガラスがガタガタと揺れた。東の空を見ると、真っ黒な雲が立ち上がっていた。裏山に避難した後、灰や焼け焦げた紙が「ボタン雪のように降ってきた」。今にも雨が降り出しそうな暗い空の下、落ちてきたものを拾って遊んだ。
帰宅後、自宅近くの川で姉と一緒に魚を捕っていた時に、雨に降られてびしょ濡れになった。午後3時頃だったと記憶している。
河野さんが浴びたのは、米軍が広島に原子爆弾を投下した後、空に立ち上がった「きのこ雲」や、二次火災に伴う積乱雲から、県内広域に降り注いだ雨だ。「墨を溶かしたように黒く、油っぽかった」「浴びた後、着ていたシャツが真っ黒になった」などの証言があり、「黒い雨」と呼ばれている。また、灰や燃えかすが降ってきた地域も多く、「黒い雨」はこうした降下物の総称でもある。
黒い雨には、放射性物質が含まれていた可能性がある。これを浴びることで放射線を体外から受けて外部被ばくしただけでなく、雨が混じった水を飲んだり、雨に濡れた畑の作物などを口にしたりすることで放射性物質を体内に取り込み、内部被ばくの影響を大きく受けたと考えられている。
なぜ、同じ雨を浴びたのに国は区別をするのか
だが、黒い雨に着目した援護施策が始まったのは、戦後しばらく経ってからだった。1976年、広島管区気象台(当時)の宇田道隆らが終戦の年に作成した降雨図、通称「宇田雨域」をもとに、健康診断特例区域が指定された。
宇田雨域が「大雨雨域」とした長径約19キロ、短径約11キロに広がる楕円形の中で黒い雨を浴びた人は、無料で健康診断が受けられるようになった。だが、大雨雨域の外側にも雨を浴びた住民はいる。少なくとも、宇田雨域における「小雨雨域」(長径約29キロ、短径約15キロ)の内側にいた住民は間違いないと言えそうだったが、国は、十分な根拠もないままに援護を大雨雨域に限定した(詳しくは拙著3章「筋が通らない土壌調査」を参照)。
「区域外」とされた住民は憤る。なぜ、同じ雨を浴びたのに国は区別をするのか――。
それは、国の不合理な《線引き》に対する怒りだった。健康診断特例区域を拡大するよう求める運動が始まり、1978年、「広島県『黒い雨・自宅看護』原爆被害者の会連絡協議会」が結成される。
その後、1989年には気象学者の増田善信氏が、2010年には広島市の調査を解析した広島大学の大瀧慈教授が、それぞれ新しい降雨域を発表した(通称「増田雨域」及び「大瀧雨域」)。いずれも、「大雨雨域」よりも広い範囲に雨が降ったことを指摘していた。しかし、国は「科学的、合理的な根拠に乏しい」「内部被ばくを含め広島原爆由来の放射線により健康影響が生じたとする考え方は支持できない」などと否定し、住民の訴えを退けた。