男女の分業が「当たり前」とされてから
「それはおかしい」と国連に指摘されるまで

——1958年に発表された技術・家庭科の学習指導要領で、印象的な内容を教えていただけますか。

この年の学習指導要領で印象的なのは「各学年の目標および内容」に書かれている、以下の文面です。

「生徒の現在および将来の生活が男女によって異なる点のあることを考慮して、『各学年の目標および内容』を男子を対象とするものと女子を対象とするものとに分ける」

つまり「男性は外で働き、女性は家を守る」という性別による役割分業を前提として、将来に備えた教育的配慮で男女別のカリキュラムを提供しますよ、と言っているわけです。これにより、男性は「家庭」の内容を、女性は「技術」の内容を学べなくなりました。なお、技術教育の振興が叫ばれていた時代だったので、一応「女子向き」の内容にも「家庭工作」や「家庭機械」というものが含まれてはいました。しかし、男子が学ぶ「技術」には及ばない低いレベルの内容でした。

そして1960年から言われ始めた高校家庭科の女子のみ必修は、1970年の学習指導要領改訂で決定的になります。

——その後再び、男女とも中学校の技術・家庭科や高校の家庭科を学ぶようになりますよね。その過程も教えていただけますか。

だんだんと風向きが変わってきたのは、1970年代中頃です。そのきっかけは、国連が1975年を「国際婦人年」としたこと。この年に国際婦人年世界会議が開催されたのを皮切りに、世界各地で女性に対する様々な差別を巡る議論が活発化しました。そして1979年には国連で「女子差別撤廃条約」が採択されます。

男女共修化までの長い道のり…かつての「男女別の技術・家庭科」に見え隠れする政財界の思惑と性別役割分業に基づく日本社会_2
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家庭科教育においては、参議院議員の市川房枝氏や家庭科教師たちなどが1974年に立ち上げた「家庭科の男女共修をすすめる会」が中心となり、男女が同じカリキュラムで授業を受けられるよう市民運動を展開しました。

日本は1985年にやっと「女子差別撤廃条約」に批准します。批准までに時間がかかった理由は主に3つあり、ひとつは女性の雇用上の差別があったこと、もうひとつは国籍法における差別、そして三つ目に家庭科教育における男女別履修形態と異なるカリキュラムがあったことが挙げられます。これらの問題を解決する見通しが立つまで、しばらく時間がかかったわけですね。

ちなみに、当時、この高校家庭科の男女共修に最後まで反対していたのは、文部省だったようです。「男女平等」が国際的なムーブメントになっていたことも、後押ししたのでしょう。家庭科にとっては「外圧」がプラスに働いたといえますね。

——この批准に際して、技術・家庭科の学習指導要領はどのように変更されたのでしょうか。

批准までの間に、技術・家庭科での「男子は技術、女子は家庭科」という区分けは徐々に薄れ、明らかな性別による区別は言及されなくなっていきます。

決定的だったのは、1989年の学習指導要領の改訂です。これにより、中学校の技術・家庭科には男女共通履修領域が設定されました。それは「家庭生活」「食物」「木材加工」「電気」で、必ずこれらの科目を男女共に学ぶということです。そして高校の家庭科は初めて男女ともに必修の科目となりました。男子校であっても、必ず家庭科を学ぶことが義務付けられたのです。こうして制度上は、性別によるカリキュラムの差はなくなりました。

この変更が教育現場で一斉に適用されたのは、中学校は1993年の全学年から、高校は1994年入学の1年生からです。