被害者の親の立場になったら
成人であれば最低4ヵ月、少年であれば最低1年以上の保護観察期間を担当する。月に1度から2度面接をし、少しずつ良好な関係を築きながら保護司としての判断をしていたのだという。
「もちろん全員を更生させたなんて思っているわけではありません。ですが『学校に行き始めました』とか、『家族のいさかいがなくなった』等いい報告をくれた人もたくさんいました」
そんな中澤さんにもどうしても重荷だと感じた子がいた。中澤さんの20年間の保護司時代の中で最も印象深かった子だという。
「内容は話せませんが、本当に重い事件を起こした青年を預かったときのことです。面接に来ても自分の話だけを楽し気にする子でした。
一定の面接期間を経てくると、私自身が被害者の親の気持ちになっちゃうんですよ。自分の夢ばかり楽し気に話してる加害者が目の前にいて、被害者の親なら、お前の人生はあるけどウチの子の人生はどうしてくれるんだって言うだろうなって。
そう思うとやるせなくなりました。反省の言葉が少しでも口から出て欲しかったんです」
少しずつ対象者の心の氷が溶けるのを待っていたが、一向にその気配がなく中澤さんも焦れた思いでいたという。
「反省の言葉が聞きたくて、その話をすると急にさっとシャッターを降ろす感じで黙ってしまいました。そうなると無言で時間だけが過ぎていきます。『すまなかった』の一言だけでも言葉として出てほしかったんですけどね。
私が『現場まで行って、お線香あげてきたよ。君も行ってみない?』と言うと、黙り込んでしまうの。それでもまた時間をかけて、『この前ね、うちの主人と缶ジュース持ってお線香またあげてきたよ』って伝えると、『あ、そうですか』って感じでね。
反省の言葉を求めたり、涙を流させたりって保護司の役目じゃないというのはわかっていたの。これまでさんざん事件のことだって聞かれてきただろうし。でも、どこかで欲が出てたんだろうなあ」
後にも先にも面談が嫌だと思ったのはこの時だけだったという。
「今日もその子が来るんだなと思うと私自身も疲れていました。長い保護観察期間が終わって『ありがとうございました、今度遊びにきます』とその子が最後出て行った時、この子はきっと遊びには来ないと思ったの。
私自身も解放感の方が大きかったんです。保護司なんて言ったって、できることは重いお尻をちょっと持ち上げてあげたり、ちょっと背中を押してあげられる程度で限界があるんです」
社会貢献しようだなんて大それた思いはないという。世の中に機嫌のいい人が増えたら、それで自分も喜べると周囲に声をかけ続け、中澤さんは77歳の時に保護司を引退した。