現在にも繋がるコザの変遷
人種間の対立が深刻な米国の実情を反映し、「コザ」でも肌の色による棲み分けがされていたことを知っている人は少ないのではないか?
そんな当時の「コザ」の空気を映像として残したのが、映像集団「NDU(日本ドキュメンタリストユニオン)」が1971年に発表した記録映画「沖縄エロス外伝 モトシンカカランヌー」。撮影メンバーが取材拠点としたのが、黒人街と化していた「照屋」だった。
撮影メンバーのひとり、井上修氏はこう話している。
「コザは、明確に人種で棲み分けがされていた。ゲート通りと、そこにほど近いセンター通りは白人の街だった。僕らがいた照屋には黒人たちがいた」
黒人兵向けのAサインや米軍の認可を受けていない売春宿も点在していた地区のほど近くに、現在も残る「特飲街」がある。
1952年、コザの最初の特飲街で、「ニューコザ」と呼ばれた「八重島」に続いて拓かれた「吉原」だ。60年あまり、街の変遷を見続けてきた商店主が教えてくれた。
「もともとは白人相手の特飲街だったが、50年代の半ばに米軍の大規模なオフリミッツがあり、日本人相手に宗旨替えしたって話よ。名前の由来は、ソープランドが集中する東京の吉原からとったと聞いているが、確かな話ではないさ」
コザ出身のタレントの羽賀研二にも話を聞くことができた。米兵の父と沖縄人の母を持つ「アメラジアン」として生を受けた自身の半生、沖縄戦の記憶が刻まれた沖縄で「アメリカー」の子どもを宿した母親の思い出を振り返り、こう語っている。
「日本は本当に特殊な国だと思います。 だって、原子爆弾を落とされているんですよ。 沖縄戦では火炎放射器で住民を焼き殺されたりもしている。
それでも日本にいま、反米感情ってないでしょう。逆に憧れてるくらいだ。俺はそれがすごく不思議。じゃあ、自分に反米感情があるかといえば、ないですよ。だって、半分アメリカ人なんだから。反米感情、 持とうと思っても持てないんです」
「コザ」では復帰直前の1970年、住民らが米軍の車両を一斉に焼き打ちし、米軍への抵抗の意思を示す「コザ騒動」と呼ばれた民衆蜂起も発生している。
取材を通して、「コザ」が「基地の島」としての不条理が澱のように積み重なってできた街であるということを感得した。
沖縄にはいまも在日米軍専用施設の約7割が集中し、米軍の事件事故が相次ぐ「基地の島」であり続けている。
国防の重責を背負わされ続けている一方で、絶対的貧困が横たわり、4人に1人が命を落とした沖縄戦の悲劇を忘れまいと声を上げる県民には理不尽な敵意が向けられる。
半世紀前、「コザ」の女たちが生き抜いた不条理な物語はいまも続いているのだ。
※敬称略
取材・文/安藤海南男
後編:「ハブをあそこに入れちまった」1970年・沖縄日本復帰前のあの日、紫煙立ちこめるコザの店内で見たハブと性愛のダンスを踊る、“遊女”キワコの一生 はこちら