百戦錬磨の信玄の術中に見事はまり…
家康はどんなふうに三方ヶ原の戦いで完敗したのか。これまでの通説によれば、武田軍がこの三方原台地に上がり、一旦は南側にある浜松城に攻め込むと見せかけながら、くるりと方向を変えて西へ向かったという。
さらに、家康に背中を見せるように台地の北側にある祝田坂(ほうだざか)を降り始めたところ、その知らせを聞いた家康が信玄に挑発されたと憤慨し、籠城を進言する部下の反対を押し切って浜松城から出陣した。
武田軍に背後から襲いかかるべく三方原台地に駆け上がった徳川軍だが、そこで驚愕の光景を目にすることになる。狭い祝田坂を下っているはずの武田軍が、見事なまでに陣を整え、待ち構えていたのだ。百戦錬磨の武田信玄にまんまと騙され、城からおびき出された徳川軍はわずか2時間ほどで総崩れとなった。
わずかな部下に助けられながら、家康は命からがら浜松城へと逃げ帰った。家康の兜を被り、身代わりとなって首を獲られた武将もいる。その際、家康はあまりの恐怖のために馬上で糞を漏らしまい、城にたどり着いた後、それを部下に指摘され「これは味噌だ!」と叫んだといった逸話も残っている。
また、二度とこのような負け戦をしないよう己への戒めにするため、「しかめ(顰)像」を描かせた話は有名だ。しかめっ面で頬杖をつき、足を組んだ姿の家康の肖像画を誰もが一度は目にしているはずである。