栗城さんがエベレストから帰国した後、私は彼から提供された映像で「ギネスに挑戦!」企画を振り返った。カラオケを歌い終えた栗城さんは、グッタリとしてその場を動けなくなっていた。スタッフとシェルパに両脇を抱えられ、引きずられるように山を下りていった。KO負けしたボクサーのようだった。

歌った翌日の映像に、ハッとするようなシーンが収録されていた。栗城さんが衛星電話を手に、怒鳴り声を上げていたのだ。

「ちゃんと見てくださいよ!」

電話の相手は東京のテレビ局の制作者だった。どうやらネットの生中継を見ていなかったようだ。自分の番組を作っているくせに、体を張って歌った『ウィ・アー・ザ・ワールド』を聞かなかったことに、栗城さんはご立腹だったのだ。

この企画に対する彼の本気度に、私は逆に驚いた。

ちなみに栗城さんが申請した「世界最高地点での二つの挑戦」をギネスは却下した。

「危険を伴う行為なので認定できない、って言われたみたいです」

私は栗城さんからそう説明を受けた。

私が栗城さんにした唯一のアドバイス

夢の共有はテレビマンの言葉が発端だった。私は自分にこう問いかけた。

《お前は表現者の端くれとして、栗城さんに何かアドバイスをしたのか?》

……した。一つだけ。

「左手でも撮影したらどうですか?」
そう言わせてもらった。彼に会ってまもないころだ。栗城さんの自撮り映像は、最初のマッキンリーからすべて利き手である右手で撮ったものだ。必然的に、彼の顔は画面の右を向いている。左向きの顔がない。映像が単調なのだ。

栗城さんが山でどういうふうに撮影しているのか、番組の視聴者がイメージしやすいように、彼の事務所の向かいにあった公園で実演してもらったことがある。斜め前方に右手を出し、顔の方にレンズを向けるだけだ。要は、勘を頼りに撮っている。カメラグリップに指を通すのが基本だが、通さなくても十分撮れる。

グリップに指を通さないのであれば、左手で撮っても同じだ。左手でカメラを掴んで自分に向ければ、画面左を向いた顔が撮れる。自撮り映像のバリエーションが倍になる。単純な話だ。

「いいですねえ!」と栗城さんは目を丸くした。

だが、ついにやらなかった……最後まで。

「生中継やってみたら?」の言葉ほど彼の心をくすぐらなかったようだが、私は試してほしかった。映像を売りにするエンターテイナーであるならば……。

企画のスケール感に酔うのではなく、小さな発見と地道な改善が作品の質を高めていくことも知ってほしかった。

文/河野啓

デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場
河野 啓
エベレストで流しそうめんにカラオケ!?  方向性を見失っていった登山家・栗城史多氏の晩年_2
2023年1月20日発売
825円(税込)
文庫判/384ページ
ISBN:978-4-08-744479-7
第18回開高健ノンフィクション賞の受賞作『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(集英社)の文庫版が1月20日に発売された。2018年に亡くなった「異色の登山家」とも称される栗(くり)城(き)史(のぶ)多(かず)氏を描き、注目を集めた一冊だ。
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