空想しないから実現しない
―― 小説の中で徳子おばあちゃんが「よき時を思いました」というフレーズを手紙に認める場面が出てきます。タイトルにもある「よき時」とはどんな時間のことなんでしょうか。
「よき時」というと、あの頃はよかった、あの時代はよかったと、過去のことを言うことが多いですね。でも過去というのはどんなに栄光に満ちた過去でも、もう終わったものは終わったんです。僕が思う「よき時」は過去ではなく未来のこと。栄光に満ちた未来のよき時を、人間ってあまり空想しないでしょう。それは空想しないから実現しないんだと思う。
みんな、こうなればいいなあみたいのはあっても、そこに誰それがいて、こうなって、ああなって、こんな家に住んでという、具体的な映像までは想像しないでしょう。でもね、そういう具体的なイメージを抱きつつ、そのよき時を目指していこうという意志力みたいなものがあれば、それって実現するんと違うかな。
―― 徳子おばあちゃんは、若いときから九〇歳になったら祝賀晩餐会をやると決めていました。これは意志力ですね。
そうですよ。大変な苦労があっても、人間には一〇年先、二〇年先にそれを乗り越えていろんなことを復興していく力がある。そういう幸せな未来を思い描く気持ちが、「よき時を思う」です。
―― この小説には、子どもの頃に吃音で苦労した教え子たちがフランスで一流のシェフになったり、そば打ちの名人になって弱点を克服する話が出てきます。小学校教師だった徳子さんが彼らに法華経の妙音菩薩品を読めと教える場面が示唆的ですね。
この小説で唯一悔いのあるのは、妙音菩薩のことをもっと書けばよかったかなということ。妙音菩薩というのは吃音なんですね。なぜ妙音菩薩が吃音者であるのか、それを書きたかったんですが、法華経を読んでも、どの仏典を読んでも、妙音菩薩に関してはどこにも解説がない。
妙音菩薩とは、言葉ががたがたとつまずく人という意味なんですが、それなのに“妙音”なんですよ。しかも釈尊の教えをあらゆるところで説くその声が非常に人々の心に沁みわたるという、すばらしい語り手なわけです。それなのに吃音者だということの意味を僕なりに書こうと思った。だけど、やめとこう、これ書いたら説明になると思ってやめたんですよ。で、説明する代わりに徳子さんに言わせた。妙音菩薩のことをおとぎ話として読んじゃいけないよ、これは本当のことなんだと思って何度でも読んでくださいと。
―― そういう助けもあって、吃音だった子が一流の仕事を成し遂げる人間に成長する。それも、思いが叶う「よき時」ということでしょうか。
そうですね。実際日本人のシェフが、フレンチのシェフになってエリゼ宮の専属のシェフになれるかというと、それは大きな壁があると思います。夢物語でしょうけど、小説ではそれができるのでね。
よき時を目指していこうという意志力があれば、
それって実現するんと違うかな。
庶民をなめたらあかんよ
―― そのフレンチの玉木シェフが料理を用意する晩餐会は、華麗で豪華で、みんな料理ごとに感嘆の声をあげて舌鼓を打つ。すべてが本格的なのにほのぼのと温かいですね。
あの晩餐会のシーンはどれだけ大変だったか(笑)。歴代の天皇陛下主催の晩餐会のメニューとか、全部調べました。でも、小説にも書きましたが、各国の賓客といっても、いろんな国があって宗教も違う。宗教的に食べられないものもあるし、アレルギーのある人もいますよね。そうやってさまざまに配慮すると、結局当たり障りのないものになる。本当の晩餐会の料理は、すばらしいものではあるけれど、今の流行りの豪華なフレンチと比べるとずっと質素だし、量的にもそんなに多くないんですね。
―― でもみんな幸せそうです。晩餐会は、〈自分の人生に関わった人々すべての生命を褒め讃えるためのもの〉という言葉が胸に沁みます。晩餐会に出ていなくても、招待状のエンブレムを作った印刷所のおじさんや、春明が世界でいちばんおいしいと思うアイスクリームを作る定食屋のおじさん、最後に登場する三沢家の人々……、一人ひとりに煌めく瞬間がある。読後の幸福感は、そういうところから来るんですね。
でも、実際そうなんと違う? じつは大変な苦労してきているのに、顔や口に出さないだけの人っていっぱいいますよ。そんな人と腹を割って話したら、えー、こんなすごい考え方する人だったのか、こんな頼りになるおじいさんやったんやと驚くような、そういう人たちがたくさんいます。だから、政治家は庶民をなめたらあかんよ。
―― 庶民をなめたらあかんですね。
ほんまに。あんたらよりはるかに人間としてすごい人たちがあんたたちを見ているよということです。庶民はすごいんだぞと。今回もね、小説の舞台として、宿場の名残がわずかでもあって、静かなところでどこかないかなといろいろ歩いて取材したんです。それで武佐宿になったわけですが、取材の旅の途中に、宿場町歩きを趣味にしている年配の方にずいぶん会いましたよ。
僕もスニーカーはいて歩いているから仲間やと思って話しかけてくるんやけど、みんな歴史に通じて一家言持っている。中には何年かかけて中山道を東京の板橋まで歩くという宿場オタクもいてね。話し出したら止まらないのがちょっと困るんやけど(笑)。でも地味だけれど、楽しい趣味ですよ。小説の取材でちょっと歩いただけで、すごい庶民がこんなにいるんだぞということに気づく。偉そうにしてるやつらに、かつての日本の宿場町を歩いて見ろと言いたいね。
この小説は、いろんな人生の詰まったおもちゃ箱ですよ。このおもちゃ箱をあけると、いろんなおもちゃが出てきて、たくさんのいい人生があったなと。そういうふうにこの一冊を読んでいただけたら、作者としてはうれしいですね。