新作のタイトルは『ソロバン・キッド』
最初にことわっておきますが、この小説にアンパンマンは登場しません。ハンバーガーキッドやアリンコキッドが活躍する話ではないので、子供に読み聞かせて喜ぶかどうかはかなりあやしいでしょう。それからまた、自動車のワックスがけをしているあいだに空手の技が身につく少年や帝王に挑むクールなポーカー賭博師も出てきません。なぜなら、それは『ベスト・キッド』と『シンシナティ・キッド』だからです。
では、どんな小説かというと、これはある若者が経験した二つの真剣勝負の物語です。ひとつは少年のころ、もうひとつはその十一年後。ひとつは数人の友達に見守られながら、もうひとつは三千人を超える大観衆のまえで。
この二度目の勝負には、モデルになった出来事があります。第二次世界大戦が終結した翌年に東京でおこなわれた、進駐軍兵士と逓信省職員による電気計算機とソロバンの計算対決です。米軍の機関紙・星条旗新聞の主催によるこのイベントは、当時、日本国内はもちろん米国本土でも話題になったらしく、残っているニュース映像を見ても試合会場の熱気が肌に伝わってきます。
もっとも、小説ではこの出来事を史実としてたどるわけではなく、ストーリーはまったくのフィクションです。実在する関係者はあえて名前や年齢、職場などを変えているし、主人公の半生についても伝記的な要素はありません。だから、かれのどんな言動もモデルとなった人物とは一切関わりがなく、すべてわたしの想像の産物です。
関わりといえば、ついさっきこの小説と『ベスト・キッド』や『シンシナティ・キッド』は無関係なふりをしましたが、白状するとこれはフェアな態度ではありません。
じつはタイトルを決めるのに四苦八苦して、担当の編集者と二人で首を捻りつづけていたとき、煮詰まった頭にふと浮かんだのが、さきにあげた映画のタイトルでした。つづけてあとふたつ『オクラホマ・キッド』と『フリスコ・キッド』が浮かびましたが、こちらはさきの二本よりはちょっとマイナーかもしれません。
ちなみに、後者の二本はどちらも西部劇で、オクラホマは正義の無頼漢ジェームズ・キャグニーと悪党一味の親分ハンフリー・ボガートがドンパチやる活劇、フリスコのほうはジーン・ワイルダー演じるユダヤ教のラビとハリソン・フォード扮する銀行強盗の珍道中を描いたコメディです。
ともあれ、そこであらためて考えてみると、「〇〇〇・キッド」という呼び名には、やんちゃっぽさや元気のよさ、未熟さやあぶなっかしさ、秘めた正義感や勇気、そしていくつになっても少年の心を失わない男という響きがあるようです。
よし、これならいける、かも。とまあ、ダメもとで口にしたのが『ソロバン・キッド』というタイトル案で、「うーん」と唸り声が返ってきて終わりかと思いきや、「それは案外いいかも。小説の内容や雰囲気にも合ってるし」と思いがけなく、すんなり決定の運びとなったのです。
えっ、そのタイミングで? と言われてしまいそうですが、タイトルが決まってから気づいたことがあります。どうやらわたしはこの小説で子供らしい子供と、子供のころに経験したことを忘れていない大人を描きたかったようなのです。
それはもしかすると、わたしが近ごろ抱いている慚愧の念のせいかもしれません。
わたしが子供のころ、あるいは青年時代、社会には権力者による虚偽や不正、搾取、隠蔽、贈収賄、脱法行為などが溢れていました。わたしはそれに怒りを感じていたし、まわりにいるおなじ年頃の人達も、こんな世の中ではだめだと大いに憤慨していました。だから自分たちの世代が社会の主導的立場になるころには、そういう汚濁が一掃されて、世の中はもっと住みよくなっていると思っていたのです。
ところが、どうでしょう。社会にはいまも虚偽や不正、隠蔽が満ち溢れ、権力者は堂々と力を乱用して恥じるどころか自慢げですらあります。あのころと、なにも変わってはいません。それどころか、いまや社会の一部を成すにいたったSNSの世界では、ともすれば実社会より激しく虚報と悪意が飛び交い、ときにはリンチの場とさえなります。
よし、将来は大物になって、他人の権利や気持ちを思いっきり踏みにじってやるぞ、と抱負を立てた子供は、わたしのころも、その前後の世代でも、そんなに大勢いたとは思えません。なのに、どうしてこんなふうになってしまったのか。どうすれば若い日の正義感や腐敗を憎むこころを貫きとおせるのか。
こたえは簡単には出ないでしょう。これからしばらくこの問題について考えながら小説を書いていくことになりそうです。