家康が愛した「麦飯のおにぎりと焼き味噌」
まず大豆を、指ではさんでつぶれるくらいの柔らかさになるまで煮る。その後、ざるに取り上げ水を切ったら、臼(うす)にあけ、杵(きね)で豆を八分までつぶす。そして、桶に移して団子状にまとめるが、この団子を味噌玉と呼ぶ。味噌玉には棒で穴を開け、2、3乾かした後、この穴に縄を通して、風通しのよい場所に吊るす。
2か月くらいすると、白い花と呼ばれる、かびが咲くので、仕込みにかかる。味噌玉を洗って汚れを取った後、槌(つち)か杵で砕き、桶に塩を間に入れながら4回くらいに分けて移す。
水を加えてかき混ぜ、一昼夜置いてから、味噌の表面にふたをするように塩をした後、三河木綿(もめん)をかぶせ、その上に中ぶたを重ねて、重石を置く。味噌蔵に2年ほど寝かせて出来上がりである。
工場に見学に行った際、巨大な樽1つで6tの味噌が仕込まれると説明された。味噌汁にすれば30万人分、1人の人間が毎日食べて800年もつ量だという。この木桶1つあれば、1万人の軍隊が10日食いつなげるということになる。
木桶の上の石積みは今でもすべて人力で行われていて、重量は3トン。熟成が進むにつれ、味噌の表面は下がっていくが、その際、石積みは形を崩さず、重みも均等にかかるように保つ必要がある。それを見越して、石が積めるようになるには熟練の技術が必要で、10年以上修業してやっと身に付けられるのだという。
また、豆味噌は他の味噌と比較して醸造期間が長く、2年以上寝かせてから出荷するということだった。
家康存命の頃の、味噌の醸造はもっと小規模だったはずだが、製造法は大体同じであっただろう。石積みといい、醸造期間といい、豆味噌は随分手間暇がかかる。家康はこの豆味噌が大好きで、鷹狩りの時などは、麦飯のおにぎりと焼き味噌、もうそれだけであとは何もいらないという人だった。