占い師・真木あかりさんが3度の結婚を経てやっとつかんだ「自分が納得できる人生」
引き続き、真木あかりさんのインタビューをお届けします。
現在20以上の連載を持つ、人気占い師の真木さん。今回の取材は、来年度の占い原稿執筆に忙しい中、母校である学習院大学で撮影を行いました。楚々とした上品な佇まいは、静謐な校舎の雰囲気にぴったり。しかし、話し始めると気さくで、ユーモアとオタクセンスの効いた会話で盛り上げてくれます。
社交的に見える真木さんですが、幼少期はとてもおとなしい子だったと振り返ります。つらい体験をいくつも重ね、それを乗り越えてきた強い心も明らかになりました。後半では、半生をたどりながら、書く仕事を実現し幸せをつかんだ今について語ります。また二度の離婚、そして三度目の結婚を経て分かった幸せのあり方とは。(この記事は全2回の2回目です。前編を読む)
小学校の担任教師からいじめられ友達ができない
真木さんは、静岡市内の新興住宅地に生まれました。父親は植木職人、母親はポスター専門店を営み、8歳上の姉との4人家族。社交的な姉に対し、真木さんは内気な性格だったそうです。好きな遊びは、人形遊び。家で過ごすのが好きだったと言います。
「両親からは厳しく育てられたように感じています。両親は兵庫出身だったので、私への口ぐせは『○○ちゃん、あかんあかんあかんあかん』でした(笑)」
将来の夢は、ケーキ屋さんかお花屋さん。おとなしい性格のまま、小学校へ入学。楽しい小学校生活の始まりかと思いきや、担任の先生からいじめに遭います。その先生が担任だった1年生から4年生までの4年間、友達ができないという状況に追い込まれてしまいます。
「ごく普通の公立小学校でしたが、担任の先生に嫌われてしまったんですよね。えくぼができるから可愛くない、ブスだと言われて。頻繁に定規で叩かれていました。先生がみんなに『◯◯さんのことをいじめてもいいわよ』なんて言うんですよ。そのせいか、友達は一人もできませんでした」
連れ去り未遂で「人生のどうしようもなさ」を悟る
当時は、まだ不登校が一般的ではなかったこともあり、真木さん自身が「学校を休みたい」と思ったことは一度もなかったそう。親に相談しても「お前にも悪いところがあるんじゃないか」と言われ、逃げ場のない状況に。しかしそれに屈することなく毎日学校に通っていました。
「私が結構しぶとかったんです。『どうしたら先生に好きになってもらえるだろう』『明日は、これをやってみるか』と工夫をしていました。小4になった頃、極限状態が来たのか、帯状疱疹になりました」
不審者に連れ去られそうになったことも。小学1年の時、知らない人からビルの入り口を探していると聞かれ、案内すると屋上へ連れて行かれたそう。間一髪で発見されましたが、そんな時も先生の対応に傷付けられます。
「新聞にも出るような事件だったので、学校に『同級生たちには秘密にしておいてほしい』とお願いしました。だけど、先生が帰りの会で『◯◯ちゃんはこんなに恥ずかしい目に遭いました。皆さんも気をつけましょうね』と言って。それが一番ショックでした」
その後、小4の時にも公園で連れ去りに遭遇。こちらも未遂に終わり事なきを得たものの「誰にも言えませんでした。またあんなふうに言われたら嫌だし、親にも言えないし。人生にはどうしようもないことがあるんだと思いました」。
大学時代の思い出はどれもなんとなく“グレー”の曇り空
苦しい日々でしたが、ある転機を迎えます。学校での成績がそれほど良くなかった中、親に連れて行かれた公文の教室で、先生から予想外の評価を受けました。
「初めて勉強を褒められたんです。それまでどんなにいい点を取っても、通知表には1と2しかなかった。公文の先生が母親に『この子、勉強できないわけじゃないよ』と言ってくれて。よっしゃー!と思い、嬉しかったです。もっと勉強をやってみようと思い、中学受験をすることになりました」
進学した中学はカトリック系の中高一貫校。県内全域から生徒たちが集まる学校でした。「カトリックの厳格な雰囲気には、あまりなじめずにいました。早く卒業したかった」。その時、希望になったのが、絵を描く時間と本を読む時間でした。
「高校では美術部でした。X JAPANが好きで、血に染まった薔薇とかをよく描いていましたね」。将来、絵の方向に進むことも一度は考えましたが、自分より水彩画も漫画もうまい同級生がいたことで「100回生まれ変わっても、この子みたいには描けないと思って。あっさり諦めました」。残った選択肢が、文章の道でした。大学は、学習院大学の文学部日本語日本文学科へ。近代文学を学んではみたものの、文学研究よりも「自分で書きたい」という思いが強かったそうです。
「一人で東京に上京してきた時は、夢しかなかったですね。とにかく自分でやっていきたい、自立したいと思っていました。でも、あの時代って結構大変だったんですよ。山一證券の破綻もあって、就職氷河期で。世の中がどんどん暗くなっていく中で、どうやって生きていけばいいんだろうと不安でした。当時の思い出はどれもなんとなく“グレー”、曇り空です」