競争に囚われると自分に執着する
さらに問題は、学ぶことを競争と結びつけると、とにかく、結果を出しさえすればいい、そのためには他の人との競争に勝たなければならないし、競争に打ち勝って結果を出すためにはどんな手段を使ってもいいとまで考えてしまうことです。
昔、塾で生徒が先生に殺されるという痛ましい事件がありました。その時、共に学んでいた仲間たちは悲しんだに違いありませんが、「これでライバルが一人減った」といった生徒がいたという話を伝え聞いて驚いたことがあります。
ある学校で自らの命を絶った生徒がいました。受験前なので他の生徒たちに動揺を与えてはいけないと考えた学校は、その生徒の死を伏せました。彼は冬休みの間に転校したという説明を教師はしましたが、受験直前に転校するというようなことは少し考えればよほどのことがなければありえないでしょう。しかし、疑問に思った生徒は誰一人おらず、教師に真相をたずねようとはしませんでした。あるいは、おかしいと思ったけれども、自分のことだけで手一杯だったのであえてたずねなかったのかもしれません。
自分のことしか考えないエリートは有害以外の何ものでもありません。勉強ができても他者のことを少しも考えられないようでは駄目なのです。最近はそのような政治家や官僚が起こす問題をニュースなどで見ない日はないといっていいくらいです。
勉強がよくできる子どもも競争することで疲弊します。むしろ、勉強ができる子どもが競争に囚われます。いい成績を取っても、ずっといい成績を取り続けなければならないからです。競争は精神的健康をもっとも損ねます。競争して負ける子どももさることながら、負けてはいけない、常に一番でなければならない、あるいは、そうであることを他者から期待されていると考えている子どもはいつも戦々恐々としています。
アルフレッド・アドラーは次のようにいっています。
「子どもたちは、他の子どもたちが先に進むのを見たくない。そこで競争者に追いつくまで労を惜しまないか、あるいは、逆戻りして失望し、自己欺瞞に陥ってしまう」(『子どもの教育』)
勝てると思った子どもは勉強するが、勝てないと思った子どもは勉強しなくなるということです。
成功のためではない学びがある
入学試験も含めて何かを学ぶ時に、それを競争と捉える人は成功することを目的にしています。このように考える人は、他者と競争し入学試験に合格し就職することを目指して勉強します。資格試験を受ける人も、資格を得ることが就職や昇進に有利だと考えて勉強するのです。
このように、学ぶことの実用的な目的は成功であり、成功するために他者と競争しなければならないと考える人は多いですが、誰もが成功するために学ぶのかといえば、そうではないでしょう。
成功することではたして幸福になれるかどうかというようなことはあまり考えません。成功を目指す人の人生がどれも似通っているのに対して、成功を人生の目的としない人の生き方は特異なものに見えます。
私の高校時代の同級生は、大学で学ぶことはないといって、卒業後、長く山にこもって生活していました。誰も彼のような人生を真似ようとはしないかもしれませんし、そもそもそのような生き方を理解する人はいないかもしれません。しかし、そんなことを彼は意に介してはいませんでした。
どこかで羨ましいと思う人がいるかもしれません。しかし、成功する人生とは程遠い生き方を選ぶことは、あまりにリスクが大きいと考える人もいるでしょう。
哲学者の三木清は、幸福は人それぞれにオリジナルなものだが、成功は一般的で量的なものだと考えています(『人生論ノート』)。オリジナルなものは誰も真似ることはできませんが、一般的で量的な成功は追随されやすく、妬まれやすいです。
ここで頭の片隅に置いておいてほしいのは、成功のためではない学びがあるということです。成功するためでなければ、他者と競争する必要はありません。成功を目指さない人生を生きれば、学び方も変わってきます。
文/岸見一郎