大人になるとはどういうことか
――第一章に登場する302号室の双子の姉妹、藤江桜子と桂子は母親の死後、自分たちの実の父親を探し始めます。その中で桜子が〈せめてわたしたちだけでもお母さんの人生を肯定しようよ。お母さんを頼りすぎたり憎んだりせず、自由にしてあげよう。だってわたしたち、大人だもん〉と言うシーンがあります。それは、父親が誰か知らされることのなかった姉妹のわだかまりを溶かすセリフでもありますが、そんなふうに家族と向き合い、大人であろうとする人たちを通じて、央次郎が成長していく物語でもありますね。
名取 当初は意識していなかったのですが、私自身、自分はちゃんと大人になれているのだろうかと、この歳になってもざわざわした気持ちを抱えていることが滲み出てしまったんだろうと思います。とくにSNSを見ていると、自分の意見を揺るぎなく主張できる人が目立つし、誰になんと言われようと確固たる姿勢で立ち続けられる人が強いように思える。けれど、何かを断定したその裏で零れ落ちる人の気持ちはきっとあるし、自分とは異なる価値観や事情で生きている人もいるはずなのにな、と思うと、私はどうしてもどっちつかずになってしまうんです。「どっちつかず」が間違っているとは思わないけれど、迷える中学生だったころから成長できていないような気もしてしまって。でも、亡くなるまで母親と二人暮らしをしていた桜子に、断定的な物言いで「しっかりしなさいよ」と発破をかける桂子にだって、案外、子どもみたいな部分はある。強い態度で自分を守ろうとしているだけだったりもするんだよなと、書きながら思いました。きっと大人になるということは、いつでも揺るぎなく胸を張り続けることではなく、迷い、葛藤しながらも自分で結論を出し、その結論を信じられる人なんじゃないかなと思います。たとえその結論が間違っていたとあとから反省したとしても、そのときの自分を肯定してあげられる強さをもつ。間違っても誰かのせいにしたりしない、自分の選択に責任をもてる人たちの姿を、もしかしたら私は書きたかったのかもしれません。
――実際、千依さんもカラッとしているようで、いろんな葛藤を抱えて生きてきた人なのだということが、物語が進むにつれて明かされていきます。
名取 言いたいことはたくさんあるけど、誰かのために言わないでおくこと。自分がすっきりするためではなく、誰かのために言葉を選ぶこと。それもまた一つの大人の姿で、千依さんもこの物語を通じて、自分の選択に責任をとったのかもしれないなと思います。
――千依さんをはじめ、本作の大人たちは誰一人完璧ではないんですよね。間違えたり迷ったりしながら自分の選択をつかみとっていく。その姿が丁寧に描かれているのも、読者の心に響くと思います。
名取 央次郎は、その選びとるということがなかなかできずに、人の意見にふりまわされていたんだと思うんです。でも私はそれが悪いとは思わなくて、吃音のことで傷つく経験があって大学をやめてしまったことについても、「逃げてしまった、親に申し訳ないことをした」とうしろめたく思い続ける必要はないし、ふくろうハイムの日々が彼を「これでよかったんだ」「こういう自分になりたいんだ」と思える場所に導いてくれるものとして描けたのでよかったなと思います。その過程があったからこそ、住人であるかつての同級生に再会したとき、央次郎が手を差し伸べる姿を描くこともできたので。
――その同級生は、央次郎とはまた違うかたちで、他者からの視線や言葉に傷つけられ、家から出ることができなくなっています。他人の傷に寄り添い、その人のために憤ることで、自分の痛みもまた癒されることってあるよなと思いながら読みました。
名取 自分のために怒るのって、けっこう難しいんですよね。それこそ、断定的な物言いをする人に傷つけられて、そんなのおかしいと心のどこかでは思っていたとしても、なかなか反論することができずに、ずっと刃のような言葉が心から抜けてくれない。そのせいでどこにも行けなくなってしまうことは、少なくないと思うんです。だからこそ、誰かに「怒っていいことなんだよ」「あなたが下を向く必要なんてないよ」と言ってもらえることがとても大事なんだろうな、と。章を重ね、少しずつ、央次郎が外に開かれていくような物語になればいいなと思う中で、央次郎自身が誰かに寄り添う側に立つ場面も描きたいと思いました。
過去を悔やむのではなく、未来を変えていくために
――本作は全部、他人事じゃないんですよね。認知症の家族を抱える住人のエピソードが描かれますが、なんだかおかしいなと思いながら見ないふりをする、その結果、ひずみがどんどん大きくなってしまうその家庭の姿は、央次郎の両親との関係にも重なりました。
名取 家族の問題って、まさにそこに集約されると思うんですよね。たとえば子どもの発達とか、高齢者の免許返納とか、このままではよくないのではないかとうすうす感じていても、もしかしたら個性の一つかもしれないし、本人が大丈夫だと言っているしと、相手を尊重することと、むりやりにでも介入することの狭間で揺れ続ける。自分自身のことなら、あとから選択を間違えたことに気づいたとしても責任をとることはできるけど、家族とはいえ他人だから踏み込みきれない。そうやって見て見ぬふりをしてしまった結果の一例を書いてみようと思いました。
――相談できる人が誰もいないと、よけいに身動きがとれなくなりますよね。作中にもありましたが、一緒に向き合ってほしいはずの夫が、相談されたことすら覚えていなかったりしますし……。
名取 それが家族であることの絶望ですよね。だからこの小説では、変えられない過去を悔やむのではなく、未来を変えていくために、みんなでおしゃべりしたり助言しあったりする理想を書いたのだと思います。千依さんのカルチャースクールもそうですが、家族以外の居場所をもつと、異なる価値観に触れて視界が開けることもあるし、人情だけでどうにもならないことは公的機関に頼るという選択肢も生まれますから。
――名取さんは本も一つの居場所として描かれることが多いですよね。かつての同級生と央次郎が『シンデレラ迷宮』(氷室冴子、集英社文庫)を一緒に読み、感想を語り合う場面があるように、今作でもさまざまなタイトルが登場人物に寄り添うものとして登場します。
名取 私が子どもの頃は娯楽が少なく、スマホもサブスクもなかったので、いつでも読むことのできる本に助けられることが多かったんですよね。アイテムとして登場させがちなのは、単に私が本が好きで、気づくと書いてしまうというだけですが、たとえば央次郎が『深夜特急』(沢木耕太郎、新潮文庫)が好きだというように、そのキャラクターがどんな性格なのかも伝えやすくなるのかなと思います。あとは、自分ひとりで現実に立ち向かうのが苦しいとき、異なる価値観に出合う場所の一つにもなりますよね。誰にも相談できなくても、本を読むだけで視界が開けることはある……と思うのですが、理想はやっぱり、現実に誰かと繫がれる場所があること。ふくろうハイムみたいなマンションはなかなかないかもしれないけれど、他人であっても近くに住む人のことを気にかける関係性が築けたり、どんな家族も、必要なかたちで地域と結びつくことができたらいいなと思いながら書いていました。
――ふくろうハイムの中だけで完結するわけではないのも、本作の魅力だと思います。たとえその場所を去ることになったとしても絶望しないで済むよう、どうすれば人と人とが手をとりあえるのか、社会を描く小説であるとも感じました。
名取 いきなり地域社会を描くのではなく、まずはマンションから始めてみようと思ったんですよ。次はもうちょっと広い世界を舞台に、またいろんな世代の人たちを描けたらいいなと思います。私の小説には悪い人が出てこないというのが良くも悪くも指摘されることではありますが、千依さんが案外どす黒いものを抱えていたように、その人のネガティブな部分もごまかさずに描いているつもりではいて。どんな人にも、いいところもいやなところもあって当然だからこそ、できるだけ見方をかえて、その人たちがよりよく生きようとする姿を描けたらいいなと思っています。
――もともとゲームのシナリオライターをしていた名取さんですが、今、小説として物語を届ける意義は、どんなところに感じていらっしゃいますか。
名取 小説は、最終的に倒さなくちゃいけない敵もいないし、最初から決まったビジュアルの印象に縛られることもない。ただ、その世界で生きる人たちの声に耳を傾けながら、広い世界を描いていける。と同時に、キャラクターの造形をことこまかに説明しなくても、読者の想像に委ねることができる。それがシンプルにすごく楽しくて。できるだけいろいろな人間の一筋縄ではいかない姿を描くことで、誰かのこわばっていた心がゆるんだり、登場人物と一緒に、ほんの少しだけ心が広くなったりする小説が書けたら嬉しいですね。
「小説すばる」2026年11月号転載














