「漂流する時代、ファンタジーという生命線」『ノー・ファンタジー』上田岳弘 インタビュー_1
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ノー・ファンタジー
著者:上田 岳弘
定価:1,980円(10%税込)

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書きこぼした「男性の実存」を拾う

――上田さんが小説家としてデビューされてから今年で十三年。新刊『ノー・ファンタジー』は、これまでの創作の軌跡を振り返る意味でも重要な作品集だと思います。最初から全体の方向性や収録本数をイメージされていたのでしょうか。

上田 担当編集者から、だいたい何作くらいで一冊にまとめるかという提案を最初にいただいたので、それに合わせて一編ずつ書きながら全体の構造を組み立てていきました。
 まず考えたのが、作家としての問題意識として、今の社会における「男性性」について大きな書きこぼしがあるんじゃないかということです。特にここ数年、社会全体が激しく変化する中で、こぼれ落ちてしまっている男性の内実を小説という形ですくい上げることができないだろうか。それが今回の短編集を書くうえでの大きな動機でした。

――執筆の順番と単行本の収録順はシャッフルされているのですが、最初に書かれたのは「トキシック・フライデー」(二〇二四年十月号掲載)ですね。今からほぼ二年前。タイトルにある「トキシック」は「トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)」というキーワードから取られたものですね。

上田 「トキシック・マスキュリニティ」という言葉は、今の世の中で、唾棄すべきもの、無条件で排除すべき悪として処理されがちですよね。でも、果たして本当にそれだけで片付けてしまっていいのだろうか。もちろん、トキシック・マスキュリニティを批判的に捉えることが間違っているとは思いません。ただ、単純に叩いて排除するのではなく、その歪みの背景にあるものを、もっと高い解像度で捉え直す必要があるんじゃないかと思ったんです。

――作中では、アメリカでのウィル・スミスのビンタ事件がトキシック・マスキュリニティの発露として触れられています。また、非モテ男性をからかう「インセル(非自発的な禁欲者)」というネットスラングが、現代的な孤独や犯罪心理と接続されていたりもします。こういった抽象的で大きなテーマが、東京に暮らす「ごく普通の男性」のちょっとした「毒」のある日常のなかで語られています。

上田 「トキシック・フライデー」の主人公は僕よりも少し下の三十代後半から四十代前半あたりの世代です。今の日本で、特に東京という都市で男性として生きることについて考えた時に、よく言われる「生きづらさ」という言葉が適当かどうかはともかく、その実存を描くための切り口として「トキシック」という言葉、その切り口から入っていくべきだと直感したんです。
 今回はどの作品もある種シミュレーション的に書いている部分があるんですが、そのシミュレーション度合いはこの作品が一番強いかもしれない。おそらく男性なら誰にでも、僕自身の中にもあるはずのインセル的なものに対して、どう対応したらいいのだろうかというシミュレーションですね。
 日本の文学の歴史を振り返れば、かつての自然主義文学、それこそ田山花袋の『蒲団』のような作品が描いていた泥臭い自意識や男の醜悪さこそ、まさにこの系譜だったはずです。しかし、最近の文芸シーンを見渡してみると、そういった男性の内面の弱さや歪み、割り切れなさが、アップデートされた形ではあまり描かれていないと思っていました。短編集の最初に書く一編として、勢いをつけるためにも、あえてちょっと過激なテーマの作品を書いてみようと思ったんです。

――「トキシック」という、毒を含んだ言葉がタイトルに冠されている一方で、物語の導入部分にはユーミン(荒井由実)の『ルージュの伝言』が引用されていますよね。主題歌だったスタジオジブリのアニメ映画『魔女の宅急便』の牧歌的なイメージを想起させる曲でありながら、そこにはギャップがあると。

上田 『ルージュの伝言』という歌は、昔から面白い曲だなと思って気になっていたんです。歌詞をよく読むと、やっていることは浮気の告発だし、実はすごく怖い歌なので(笑)。それなのに、メロディーはとても軽快で、浮気という行為自体もどこかライトで前時代的なものとしてパッケージされている。あのかわいらしさと背中合わせの重さを書いてみたいというアイデアは、以前から頭の中にありました。

――毒(トキシック)と、金曜日(フライデー)というどこか軽薄な響きの組み合わせ。そこから読者が思わぬ場所へと誘導されるようなミステリアスな展開は、ホラー小説かと思うほどです。

上田 掲載号でちょうど「旅」をテーマにした特集が組まれていて、その一編として執筆を依頼されたのが始まりだった記憶があります。以前に書いた「旅のない」という短編も同様の旅特集がきっかけでした。僕は昔から、お題があった方が普段の枠を超えられるところあるんです。枠組みとか枷の圧力が想像力を刺激するというか。

価値基準の崩壊した世界を漂流する個人

――その次に書かれたのが、「生的同意」(二〇二五年三月号)ですね。否が応でも「性的同意」という言葉を連想させるタイトルです。ただ、上田さんは“性”ではなく“生”にフォーカスする。もっと根本的な、人間がこの社会において「生きていていいのだ」という合意を得ることについて書かれていますね。

上田 ちょうどその頃、世の中的に「性的同意」という言葉や概念が、法律の改正も含めて急激に議論されるようになったタイミングでした。
 今の時代、良きにつけ悪しきにつけ、これまで僕たちの社会を支えていた価値基準がどんどん壊れていますよね。一流の大学を出て、一流の企業に入り、あるいは難関の士業や官僚のような社会的地位を得たとしても、その人生が自動的に肯定されるわけではない。誰もが自分の人生に絶対的な自信を持てずに、ふわふわと漂っている感覚がある。価値基準が崩れてきた時代だからこそ自由にふるまえる良さもあるけれど、同時にそのダメさもあるような気がするんです。

――主人公は自分の人生に対する主体性がなく、どこかふらふらと周囲に流されている若い男性です。そんな彼が、職場で「馬路さん」という極めて優秀でありながら、ぽっかりとした虚無を抱えた先輩エンジニアに出会います。馬路さんは自分を「早死の家系だから」と規定し、出世や長生きを最初から放棄しています。この二人の独特な関係性はどこから着想されたのでしょうか。

上田 ……そうだ、今思い出しましたが、かつての同僚で馬路さんのヒントになった人がいました。その人はものすごくプログラミング能力が高いのに、驚くほどやる気がない人だったんです。僕にとっては非常に印象深い人でした。

――「有能なのにやる気がない」という虚無感の正体はなんでしょう。

上田 その人について言えば、プログラマーという仕事がずっと現場にいるわけにはいかないということがあったのかもしれません。今は違うと思いますが、その当時は「三十五歳定年説」がまことしやかに囁かれていて、キャリアの早い段階で次を考えなければならなかったんです。

――「技術の寿命」という短さの中で生きるプログラマーのあり方が、蝉のような短命さ、そして「生的同意」というテーマに無意識のうちに結びついていたのかもしれませんね。

上田 かもしれません。早め、早めに生き方を決めなければならないですから。普通はプロジェクトマネージャーなどの管理職にスライドして生き残りを図るのですがそれをやりたくない人だったんです。それが何か切ないなと思いながら見てました。

――「生的同意」には、馬路さんとはまた違うかたちで自分の命を冷めた目で俯瞰する若い女性が登場します。かつての恋人で、元地下アイドル。彼女がアイドルをめざした理由について「生きてていいんだと思いたかった」と語るのが印象的でした。

上田 今の若い人たちには、そういう自分のピークや寿命をあらかじめ客観的に見積もってしまう、過剰なメタ視点がありますよね。プログラマーとしての寿命、アイドルとしての全盛期の短さ、世代も性別も違いますが、どちらも終わりを自覚しながら、しんどさを抱えて生きている。実は僕たちは誰でもそうなんだと思うんです。そういった見方が生きづらさにつながっているというか、生きることをややこしく感じる自分もいて、その辺を表現したかったのかもしれないですね。

――性的同意はもちろん大事ですが、生きることにも同意を求めてしまうというのもまた現代的です。

上田 僕の書く短編はどれも日々感じていた時代の皮膚感覚が、ぎゅぎゅっと凝縮されて小説のなかに結晶化されている感覚がありますね。というのも、僕は普段、短編小説を書く時は、四日間で一気に書き切ると決めているんです。

――えっ、四日間ですか。その時点でリアルタイムに起きていた社会的なトピックと、長らく気にされていたことが結び付いて、化学反応が起きるようなイメージでしょうか。

上田 そうですね、これまでずっと溜めてきたものとか引っ掛かっているものを、できものを潰すみたいにプチンとやると、わーっと文章として溢れ出てくるという感じです。さっきの『ルージュの伝言』がそうだし、「生的同意」でいうと、マンジャロの問題(本来は糖尿病の治療薬GLP-1が、自由診療の美容外科でダイエット目的で処方される例が相次いで報告され、その安全性と有効性が懸念されている)もそうです。痩せるためにそこまでやるのか……と思ったことがしばらく引っ掛かっていたので。