疑心暗鬼のなかで終わった細川政権

かなり際どい話ではあるが、連立内に互いの不信感が芽生えたのはたしかだ。自民党の河野と合意した94年1月末の政治改革4法の成立を機に、さきがけの田中秀征が首相特別補佐官を辞任し、細川内閣は瓦解していく。

もともと小沢は自民党幹事長時代から公明党書記長だった市川雄一と「一・一ライン」を築いて気脈を通じていた。この頃は、そこに民社党書記長の米沢隆を加え、「ワン・ワン・ライス」と永田町で呼ばれるようになっていた。

小沢のこうしたパイプは、細川内閣で官房長官を務めてきたさきがけ代表の武村と対抗するためでもあった。先述したように武村は小沢の国民福祉税導入に反対し、政治改革にも及び腰だった。小沢から細川内閣の官房長官の辞任を迫られた武村は、政治改革法案を先送りしようとした自民党に近づき、細川とも袂を分かっていった。細川が言葉を継いだ。

「武村さんは細川内閣時代から自民党と接触していて、小沢さんなどから『いったいどこの官房長官なんだ』と揶揄されていたほどです。実際、武村さんは後藤田正晴さんや三塚博さんといった自民党の重鎮と近かった。

だから、小沢さんは武村さんを警戒していたのでしょうね。『こっちの話がつつ抜けじゃないか』と怒っていました。そうして武村さんはわれわれから離れて自民党と組んでいったのですけれど、茂木さんなどは武村さんに唆された一人ではないでしょうか。日本新党から自民党に移り、武村さんは自社さ(自民・社会・さきがけ)の連立に加わっていったのです。」

そんなときに浮上したのが、細川が個人的に借りた佐川急便グループからの1億円問題である。これも細川内閣の打撃になった。細川が語る。

「実は佐川からはむしろ自民党の方がたくさんもらっている議員が多かった。問題が持ちあがったとき、私はそれをつかんでいて、いつでも表沙汰にできる状態でした。野田(佳彦)さんなんかも、自民党も徹底追及できないのではないか、と言っていたので、さほど気にしていませんでした。ただし、自民党と佐川との関係を国会などに出してしまうと、みっともない泥仕合になると思って控えました」

細川自身は政権の崩壊について、あくまで最大の要因は先の国民福祉税の取り扱いだという。だが、清廉なイメージで政権を発足させただけに、その影響は大きかったのではないか。

「そう見えましたか。けれど、ざっくばらんな話をすると、私のところは佐川さんの家主ですから、やましくもありませんでした。グループを率いる佐川清さんが京都の南禅寺そばに住んでいた1500坪の家などは佐川さんに貸していたものです。南禅寺別荘群と呼ばれ、植治(七代目小川治兵衛)さんという有名な植木屋さんがつくった琵琶湖の疏水の水を引いている庭園があります。

京都に15しかない庭園なので佐川さんも喜ばれたはずです。それに、佐川さんとの関係でいえばたくさんあります。佐川さんの出身地である新潟県赤倉の1万数千坪の家、神奈川県葉山の別荘も佐川さんに貸していました。

大家だから日頃からずい分たくさん家賃をいただいてきました。それであるとき、佐川さんが熊本の私の家を訪ねてこられました。たまたま台風で壁が倒れてしまって、佐川さんがそれを見て1億円を用立ててくれ、1千万円ずつ、10回分割で完済しました」

そして細川政権はわずか1年足らずで終止符を打ち、政界再編はさらに続いた。1994(平成6)年4月、小沢一郎とともに自民党を割って出た新生党党首の羽田孜が細川の後継と称して非自民の旗を掲げて首相に就いた。だが、急造内閣が長続きするはずもない。社会党が連立から抜け、羽田内閣は64日の超短命政権に終わる。

この間、自民党が打った一手が、新党さきがけの武村の抱き込みにほかならない。羽田首相退陣直後の94年6月、自民、社会、さきがけによる自社さ連立政権が誕生し、社会党委員長の村山富市が首相に就いた。とともに自民が政権にカムバックした。この政界再編を仕掛けたのが小沢のライバルである橋本龍太郎や梶山静六、野中広務といった自民党旧田中派の幹部たちだったのは言うまでもない。