なぜ細川連立政権は瓦解したのか

そもそも8党会派の連立政権は、自民党保守やさきがけから創価学会を後ろ盾にする公明党、さらには革新系の社会党にいたる右から左までの寄せ集めといえた。自治労からバックアップを受けてきた社会党は労働組合からの献金をストップされては困るという至極わかりやすい理由から、団体献金の廃止に異を唱えてきたのであろう。

のちに自民党が2009年9月に再び下野したときの民主党政権と同じく、政策の違った議員たちが一致団結するのは極めて難しかった。何が起きたのか。

「8党会派の連立という一つの塊ができて大きな流れにはなりました。けれど、さほどときを経ずにバラバラになった。さきがけの武村正義さんと小沢一郎さんがうまくいかなかったのが、いちばん大きいと思います。武村さんは社会党を中心に内閣をまとめていこうとした。民社党の大内(啓伍)さんなんかもどちらかといえば、社会党にくっついていった。

それで政権運営がやりにくくなった。決定打はやはり国民福祉税の導入問題でした。国民福祉税は小沢さんが大蔵省の齋藤次郎(事務次官)さんといっしょに発案したのですが、強引過ぎました。あとで自民党の野中広務さんなども、細川内閣は国民福祉税で倒れたね、と解説していたくらいです」

国民福祉税は消費税の拡張版のようなものだ。消費税そのものは今も昔も社会福祉の財源となっており、目的をさらに明確にして税収を増やそうという発想からそう名付けられた。政策を授けたのが齋藤次郎であり、小沢一郎が90年代初めから導入を悲願としてきた。なぜそれがダメだったのか。

「国民福祉税の問題の第一は、今やるのはまずいというタイミングの問題です。連立内閣で取り組むべき問題がほかにもたくさんありましたから。増税政策は国民の反発があり、あの時点で今、国民福祉税を打ち出すと政権がつぶれてしまうと危惧したのです。もう少し上手にやるべきだという意見がもっぱらで、私自身も旧大蔵省の昔主税局長をやった人からヒアリングし、同じ意見でした。

もう一つは税率の問題です。大蔵省の齋藤さんが説明したところでは、上げ幅を3パーセントから4パーセント、場合によっては5パーセントや6パーセントと想定していました。さらに記者会見直前になって7パーセントと言い出した。それはいくらなんでもやり過ぎだろう、と武村さんもそこに反発して、官房長官なのに会見にも出て来なかったり、混乱しました」

もとをただせば、細川内閣は新党さきがけの代表代行である田中秀征が首相特別補佐官として、新生党の小沢一郎とともに自民党の対抗軸を結成したはずだったが。

「小沢さんは、ときどきわがままが出るのです。たとえばとつぜん『武村氏の更迭にYesかNoか』と言い出したこともありました。『それはいくら何でも無理でしょう。内閣が崩壊します』と拒否する以外にありませんでした。ところが小沢さんにそう告げると『返事があるまで休ませてもらう』と、翌日から小沢さん自身が会議などに出てこなくなっちゃう。

そんなこんなで10日間ぐらい欠席したことが、何度もありました。小沢さんには8党の取りまとめ役となる幹事長をお任せしていましたから、政権の要が出て来ないと、とても内閣がまわりません。それには困った」

撮影/内藤サトル
撮影/内藤サトル

武村についてはどうか。小沢とぶつかるのは必然だったのではないか。

「武村さん自身にも問題がありました。率直に言うと、武村さんは私より自分のほうが先に総理になるべきだったと思っていたと思います。地方自治体の知事同士で以前から付き合いがありましたけれど、私より先輩でしたから、俺の方が先だと。そういうふうに感じるところがずい分ありました。ですから、何かにつけて反発された。

武村さんは細川内閣の官房長官として年間数十億円の機密費を預かっていました。これは推測だけど、選挙のときなどに機密費を使っていたのではないでしょうか。あくまで想像ですが、日本新党の候補者を引っこ抜くために。実際、明らかに引っこ抜かれた連中がいました。

私は官邸に張り付いて党内の面倒を見られないもんですから、いわば留守に付け込んでというか……。なかにはそれにすごく腹を立てて私に話してくれた人も何人かいました。そうすると、政権内部が疑心暗鬼になりいっしょにやっていくのは難しくなりますよね」