自民党を初めて下野させた男

自民党の保守政治は1990年代から崩れていった。きっかけは1993年8月の細川護熙が率いた8党会派連立政権の誕生に違いない。ここから自民党は1955年の保守合同以来、初めて野に下った。と同時に、対峙してきた革新政党の凋落も始まり、政界そのものが液状化していく。

言うまでもなく細川家は、九州・肥後熊本藩の歴代当主を輩出してきた名門だ。護熙は十八代目の当主にあたる。熊本県知事という地方自治体の首長から首相にのぼりつめた日本で唯ひとりの政治家でもある。

政界から身を引いて以降、祖母の近衛千代子の住まいだった神奈川県足柄下郡湯河原町宮上の邸宅に住み、茶人として茶室「不東庵」を設えるかたわら、東京にある名刹の裏手に広いアトリエを構えている。ロンドンをはじめ内外で絵画や書の個展を開いてきた。作品を生み出したそのアトリエで本人にインタビューした。

「ここの裏には、細川家の六代目から十七代目までの当主の墓があります。それで私もこのアトリエで絵や書を描いています。油絵、漆絵、水墨、いろいろです」

米寿とは思えない壮健ぶりだ。柔和な笑顔で語り出した。

細川護熙(もりひろ)氏 撮影/内藤サトル
細川護熙(もりひろ)氏 撮影/内藤サトル
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日本の政治は、竹下登政権下で摘発されたリクルート事件によって大きな節目を迎える。そもそも8党会派の連立政権はどのようにしてつくられたのか。

「初めからいろいろ考えていたわけではありません。最初は私一人でした。熊本県知事だった頃から中央集権的な日本の行政のあり様や中央官庁の官僚のやり方に苛立っていました。知事のときから日本に地方自治なんて存在しないと思ってきました。とくに熊本は水俣病対策があり、それも県は中央の下請け組織と化してきた。

なので、なんとかしなければならないという思いを強く抱いてきたのです。で、知事を辞めてから政府の行革審(臨時行政改革推進審議会)のメンバーに加わり、本当に休みなく1年間で答申をまとめる作業に携わりました。しかし行革審では、知事のとき以上にどうにもならないと強く実感させられました」

細川は1991年2月に熊本県知事を退任し、年の末に行革審に加わった。行革審そのものは1961(昭和36)年11月、総理府に設置された第一次臨時行政調査会(第一臨調)を源流とする。

その名称どおり行財政改革を旗印に掲げているが、一般に行革といえば土光敏夫が20年後の81年に会長として発足させた鈴木善幸政権時の第二次臨時行政調査会(第二臨調)のほうが馴染み深いだろう。

土光は石川島播磨重工業の生みの親として知られ、経営危機に陥った東京芝浦電気(東芝)の再建を成し遂げた名経営者として財界にその名を轟かせた。経済団体連合会会長を務め、「メザシの土光」と称された質素な私生活ぶりも有名だ。

そして土光は鈴木内閣の行政管理庁長官に就いた中曽根康弘に請われ、第二臨調を率いた。土光臨調として鈴木から政権を引き継いだ中曽根内閣で国鉄や日本電信電話公社、日本専売公社の民営化に取り組み、行政改革や規制緩和を進めたのは知られたところである。賛否はあるが、中曽根が現在にいたる日本を形づくってきたことは前に触れたとおりだ。

その土光臨調が1983年3月に解散し、改めて7月、臨時行政改革推進審議会設置法に基づいた行革審がスタートする。これも一次から三次まであり、細川は鈴木永二日経連会長が会長として1990年(平成2年)10月に立ち上げた第三次行革審「豊かな暮らし部会」の部会長に就いた。細川の言う行革審の議論は91年末から92年にかけた1年を指す。

「行革審では私が内政を任せられ、外交は京セラ(創業者)の稲森(和夫)さんが担当しました。部会の委員は十数人でしたが、錚々たるメンバーがそろっていました。行革審では土光さんの秘書だった人や朝日新聞の先輩記者だった人にも意見を聞いた。したがって第二臨調の影響も少なからずありました。

皆さん行政システムの抜本的な変革を念頭に、かなり危機感を持って行財政改革の課題として地方分権や規制緩和、行政の民営化などに思いを共有していた。ですが、ここでも中央官庁の壁が厚く、答申は本当にがっかりするようなひどい中身に終わってしまいました。国のシステムそのものを行革審で変えなければならないと考えてきましたが、国会も内閣も変革の意志と能力を完全に失っているので、無理だと思わざるをえませんでした」

ちなみに細川の加わった鈴木行革審は93年10月に最終答申を出して解散した。これが村山富市内閣の下で94年12月、行政改革委員会と改組され、元三菱重工業社長の飯田庸太郎が会長に就任した。が、そこでもさしたる成果はあがっていない。