「死んだ言葉」を捨てて生まれた日本新党

この間、細川は政界再編に向けて舵を切っていく。日本新党を結党する1年近く前に相談した相手が、出版社「工作舎」の雑誌『遊』の編集長だった松岡正剛である。数多くの書評を手掛けてきた松岡は2006年11月29日のウェブメディア〈松岡正剛の千夜千冊 1163夜〉で、出井康博著の新潮新書『松下政経塾とは何か』を紹介するかたわら、細川が新党を立ち上げたときに自らかかわったエピソードを明かしている。

〈あるとき細川護煕が訪ねてきたのである。「新党をおこしたいので、その結党宣言に手を入れてほしい」というのだ。細川さんにぼくを紹介したのは、ソニーの盛田昭夫会長やNIRAの下河辺淳理事長だった。二人から「そういうのは松岡さんに見てもらうといい」と聞いた細川さんが、一人で青葉台のぼくの仕事場にやってきたのは、平成3年(1991)の夏のことだった。熊本県知事をやめた経緯、このままでは日本をほっとけないこと、実は新党を結成したいことなどを手短かに語ると、こんな原稿を書いたので松岡さんに手を入れてほしいと言った。
 1991年というのは一方では1月に湾岸戦争が始まり、他方ではベルリンの壁が(1989年に)崩壊して、急速に東欧の民主化がおこっていった年である。この年の年末にはソ連が解体した〉

日本新党の結成は1992年5月に発売された月刊誌『文藝春秋』6月号に自ら寄稿した『「自由社会連合」結党宣言』が始まりとされる。話のなかにある〈原稿〉とは、この文藝春秋の特集記事なのであろう。つまり細川は行革審に加わる前の91年夏から松岡に相談し、新党結成に動き始めていたことになる。

そして雑誌発売の8日後の5月18日には、党常任政務委員会を設置して政党名を公募した。200を超える党名候補のなかから「平成新党」と「日本新党」の2案が最終候補となったとされる。だが当人に聞くと、内情はもう少し複雑なようだ。こう明かした。

撮影/内藤サトル
撮影/内藤サトル

「松岡さんらに相談し、自分のところ(政党)を立ち上げようと動き始めたのは間違いありません。そこからコピーライターの方々に一緒に政党名を考えていただきました。東京プリンスホテルに部屋を借り、4人のコピーライターに声をかけ、私を含めた5人で何時間も党名を考えました。

仲畑貴志さんや秋山道男さん、そういう売れっ子のコピーライターといっしょに一晩、ああでもない、こうでもない、と。それまでコピーライターは感覚だけでフレーズを決めているんだろうと思っていましたけれど、まったくそうではありませんでした」

党名の選考メンバーとして招集された秋山道男は青春出版社の新雑誌『BIG tomorrow』の創刊編集者で、衣料雑貨の「無印良品」や人気バンド「チェッカーズ」の総合プロデューサーとなる。また仲畑貴志は糸井重里や川崎徹などと並ぶ人気コピーライターとして、サントリーウイスキーの広告コピーを考案し、ソニーのウォークマンのCMで一世を風靡した。

「党名は文藝春秋で発表した『自由社会連合』までは私が考えました。いわば自由党や社会党という名前を組み合わせたような党名で、自由世界を目指す意味からそう名付けたのです。ですが、どうも彼らにはピンとこない。それで、まずいろんな言葉を選考の対象に並べ始めたのです。

私がびっくりしたのは、彼らには言葉選びに関する一定の知見があるという点でした。てっきり自分のいい加減な感性だけでビールやウイスキーのCMを考えているのだろうと思っていたのですが、そうではなかった。酔っ払っていろんな議論を交わしながら、生きた言葉と死んだ言葉を壁に書いて並べ、どの言葉がいいか、選んでいく。たとえば彼らにとっては、『連合』や『民主』なんていう表現はすでに死んだ言葉でした」

もともと細川の発案した党名を解体すると、「自由」「社会」「連合」になる。どれも民主的な共生を意味しているようにも感じる。だが、名立たるコピーライターたちにとって、それは使い古された表現でしかなかったのかもしれない。旧態依然としたリベラルのイメージの弊害ということかもしれないが、いずれもダメ出しをされたという。

「彼らにとっては自由も社会もやはり死んだ言葉の部類に入っていました。それに民主も連合も。連合を死んだ言葉と言われたら労働組合に叱られるかもしれませんが、コピーライターたちの分析ではそうなのです」

政界では民主や自由、連合といった言葉を安易に使うが、それだけに国民に対するインパクトは薄い。2000年代に入り、自民党の対抗軸として発足した民主党も当代の売れっ子にとっては、決して名付けたくない政党名だということだ。

今年(2026年)2月の衆議院解散総選挙を受けた立憲民主党と公明党が慌てて「中道改革連合」を立ち上げた。それも同じ理屈だと、ありえない党名ということになる。リベラルを標榜する政党が国民に受け入れられない現実は、案外、そのあたりにあるのかもしれない。

1992年5月22日、日本新党の結党記者会見での細川氏。写真/アフロ
1992年5月22日、日本新党の結党記者会見での細川氏。写真/アフロ

「彼らに言わせると、民主も自由もすでに90年代初めの当時から死んでいる言葉なんです。そうして朝方になって4人のコピーライターのうち、誰かが壁に書いた党名が『日本新党』だったのです。今でも誰が言い出したのか、はっきりは覚えていません。けれど、発案者は1人ではなく、2人か3人が同じ意見でした。

私自身にとくにアイデアはありませんでした。日本新党ははじめ、少し右が勝ちすぎていないか、という不安もありました。日本という名前を付けると右翼のように感じるのではないかと思ったのです。反面、たしかに大きなインパクトがある。途中からこれはいいと思い直し、賛成しました。よくよく考えると、日本新党という党名は右だか左だかわからない。多数決で、これでいこうということで合意したのです」

日本新党の結党には、先の松岡正剛や有名コピーライターだけでなく、作家の辻井喬こと西武セゾングループ創業者の堤清二も尽力しているという。文藝春秋が発売される3日前の92年5月7日、細川護熙が千代田区内幸町の日本プレスセンタービルで結党を記者発表した。

「古ぼけた家を改築するのではなく、ブルドーザーで全部片付けて新しい家を建てよう」

細川は会見でそう語り、この年の7月におこなわれた参議院選挙で4人が当選する。細川以外の当選者は、ニュースキャスターの小池百合子をはじめ、実業家の寺澤芳男、農政研究者の武田邦太郎だ。細川が振り返る。

「堤さんはホテルにはいませんでしたが、たしかに手伝っていただきました。そういう有名人に相談しながら、結党会見したのはちょうど参議院選挙の 2カ月前で、候補者選びも慌ただしかった。たとえば武田邦太郎さんはすでに80歳近くになっておられましたけれど、説得力のある農業政策を掲げておられ、人格的にも立派な方でしたのでいちばんに決めました。といってもお年寄りばかりでは華がない。

それで、誰か若い女性がいたほうがいい、と思い、私が小池さんに声をかけました。朝日新聞アフリカ総局長をしていた伊藤正孝さんがカイロで小池さんと知り合いだったということで、伊藤さんから紹介されました。

伊藤さんは私の朝日新聞鹿児島支局時代の2年先輩で、もとはウエイトリフティングの選手でした。支局時代は朝からウエイトリフティングみたいなことをやらされ、さんざん鍛えられました。新党の候補者として小池さんはキャスターとして顔が売れているからいいんじゃないか、と単純に思い、薦められるまま声をかけました」

伊藤はのちに朝日ジャーナル編集長を務めた敏腕記者だが、鹿児島支局時代には種子島のロケット打ち上げに関する大誤報をやらかしたツワモノでもある。

結党時に「責任ある変革」というスローガンを掲げた日本新党は明くる1993(平成5)年7月の衆議院議員総選挙で新党ブームを起こし、一挙に35人が当選した。細川が続ける。

「選挙は面白かった。竹下(登)さんなんかは日本新党の候補者は1人も通らないぞと見下していましたけれど、参議院で4人が当選したすぐあとの都議選でも公認候補だけで20議席取りました。都政で第3党になり、その勢いに乗って翌年の衆議院選挙で35人当選できたのです。

選挙で街頭演説に行くと、『日本新党がやって来るぞ』と聴衆が鈴なりになっていました。大阪なんかでは、人の重みで陸橋が壊れるんじゃないかと思ったほどです。遊説に行くとどこでも各地で数千人単位の聴衆が集まっていたので、300人くらいならそこはスルーしようか、という感じでした」

衆議院総選挙で飛躍した日本新党では、細川自身が非自民連立政権の首班となって政権交代を実現する。なお、現高市政権で外務大臣という要職にいる茂木敏充もこのときの衆議院選挙で日本新党から出馬して当選している。

戦国武将の細川忠興の子孫である細川は、実父の旧熊本藩細川家第十七代当主の細川護貞と元首相の近衛文麿の次女温子とのあいだの長男として東京で生まれ育った。

上智大学法学部を経て朝日新聞の社会部記者から国政に転じたが、実父の護貞から政治家になることを反対され、細川家では一時勘当同然の扱いを受けた。それでも本人は1969(昭和44)年12月の衆議院議員総選挙に中選挙区時代の旧熊本1区から無所属で出馬して落選したあと、自民党公認を得て71年6月の参議院選挙に立候補して初当選した。

当選後、自民党田中派に参加し、田中派に所属した。83年2月の熊本県知事選に挑戦して知事に鞍替えしたが、高度経済成長期の保守系議員であり、自民党政治を熟知している。もともとなぜ田中派に所属したのか。

「目白の田中(角榮)さんの家と私の祖父の家が隣同士という縁で、最初に選挙に出ようとしたときに吉田(茂)さんに挨拶に行くと、『(旧)熊本1区は自民党候補者で埋まっているから、割り込むのは大変だぞ』とおっしゃる。

選挙区には防衛庁長官や農林大臣を歴任された佐藤派の松野頼三さん、大平派の大久保武雄さんや中曽根派の大番頭だった野田武夫さんがおられた。で、『どうしたらいいでしょうか』と吉田さんに尋ねると、『田中君のところへ行くしかないだろうな』と指示され、田中邸を訪ねたのです。

それ以来、家に行くと、秘書さんが田中さんの財布を持ってきて毎月 20万円ずついただいていました。こっちも浪人生活をしていましたから、ありがたくいただいていました。ただ、私は田中さんにべったりではなく、宮澤(喜一)さんのところにもよく顔を出していました。

田中さんとは家が隣同士で、政治活動の面倒を見てもらいましたけれど、お付き合いとしては宮澤さんの方が多かったですね。宮澤さんとは総理になってからもいろいろアドバイスをいただいていました」