小沢一郎と仕掛けた「非自民」連立政権

自民党内ではむしろ宏池会に近かったという。これまで書いてきたようにそこから知事を経て連立政権を樹立するのだが、政界再編のキーパーソンが小沢一郎である。小沢との邂逅は自民党の田中派に所属していた時代だろうか。

「自民党時代にどこかで会ったことはあるかもしれませんが、もともと小沢さんとこれといって面識はありませんでした。日本新党を立ち上げてからです。小沢さんから『連立政権で勝負をかけよう』と連絡がありました。

私は『この指とまれっていう方式でどうでしょうか』と答えました。つまり『比例と選挙区を組み合わせた小選挙区比例代表並立制にし、政治改革を断行するので、賛同する政党は参加してください』と呼びかければ、賛同者が集まると考えたのです。この指とまれはこれまでやったことがない連立の方式でした。8党会派が一塊になるのは大変なことだから、この方式がいちばんいいだろうと。それ自体は割とうまくいったと思います」

1993年8月9日、55年体制の崩壊 細川内閣発足  写真 ロイター/アフロ
1993年8月9日、55年体制の崩壊 細川内閣発足  写真 ロイター/アフロ

1993年8月に非自民、非共産の8党会派で船出した細川内閣の樹立は、1955年(昭和30)年の保革対立体制が崩れた瞬間といえる。結党以来38年間単独政権を守り続けた自民党が初めて野に下った。改めて8党会派を並べると、日本新党、新生党、民社党、日本社会党、公明党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合である。マスコミ各社のスタート時の内閣支持率は70%前後と空前の国民的な人気を博した。

そんな細川内閣では、行革のほかのもう一つの主眼が政治改革だった。竹下政権下で表面化した89年のリクルート事件、さらに91年の東京佐川急便事件と立て続いた汚職により、政治とカネ問題が衆目を集めた。いわば安倍政権や高市政権といった30年後の今もなおこの問題を引きずり、解決していない。当時の政治改革気運の高まりをどう感じ、対処したのか。

「リクルートや佐川の事件は、永田町に政治改革が必要だという追い風になりました。それもあって私は日本新党の立ち上げに際し、経済界からの資金をあてにしませんでした。それまで自民党は経団連に政治献金を頼ってきましたけれど、私は一切足を運びませんでした。

父方の祖父や母方の祖母が相次いで亡くなり、たまたま軽井沢の土地千坪などの相続があったものですから、その資金で候補者の面倒を見ました。今住んでいる湯河原の家なんかも祖母から相続したものです。その相続の大半を新党の立ち上げに使いました。

もう覚えていませんけれど、それで50人以上の候補者の事務所代、自動車代を賄いました。当時の衆議院議員選挙はまだ中選挙区制で、自民党内の派閥同士で競ってきましたけれど、そこにほとほと嫌気が差していました。あの頃の政治は酷いものでしたから、国政で勝負するなら、自前で選挙をやろうと思ったのです」

細川は自民党総裁の河野洋平とともに企業団体献金の廃止をはじめとした改革方針を打ち出した。が、結果的にそれも叶わなかった。

「政治改革は当時から竹下、宇野、海部、宮澤という四つの内閣の命題でもありました。けれど、自民党政権で6年かけてもできなかったわけです。それをとにかくやり遂げよう、と取り組みました。河野さんとは政治改革における最終的なところで手を握ったわけです。企業団体献金の廃止を目指していく、と国会内で合意しました。

ところが社会党は反対が強かった。私は法案がある程度固まった段階で衆議院議長だった土井たか子さんに挨拶に行きました。握手を求めようと『お世話になりました』と手を差し出したら、バチンとはじかれたのです。

『あんたに叩かれる筋合いはない』と思ったけれど、そういう態度だった。党首の村山富市さんからは『あんたは夜明けによく騒ぐ男じゃのう』とずいぶん嫌味を言われた。採決をするのはたいてい明方になるので、そこまでいつも揉めるという意味です。『社会党がまとまらないから待たされて採決が夜中になる、まさに歴史は夜つくられる、あなた方のせいで』といつも言い返していました。コメの輸入問題のときなどもそうでしたね」