「板東は金に走るって言われたけど、そりゃ走るっちゅうねん」

本人はプロ入りを望んでいない。それでも周囲では、プロ入りを前提とするかのように話が進んでいった。

板東によれば、中日入団決定時の新聞には「英二の意思尊重 父親操氏の話」と書かれていたという。しかし、本人の記憶はまったく違う。

「こんなのウソばっかですよ。親父が金に走ったんですよ」

板東の父・操の心を動かしたのは、目の前に現れた途方もない大金だった。

「中日の柴田スカウトが岩本球団代表と銀行員2人を家に連れてきて、アタッシュケースに入った2千万の現ナマを見せて『これだけの契約金を用意しております』と言った途端、今まで渋っていた親父が判子押したからねぇ、もう情けなかったわ。初任給が1万3千円だったときですからね」

写真はイメージです
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契約金2000万円。初任給が1万3000円だった時代である。もちろん、中日だけが板東獲得に動いていたわけではない。

「阪神も来たけど、阪神百貨店のセーターを持ってきましたわ、そんなのあかんわね。南海も来て、徳島汽船の無船乗船券を持ってきたけど、そんなのはどうってことない」

そして、テレビでおなじみだった“板東節”でこう続けた。

「板東は金に走るって言われたけど、そりゃ走るっちゅうねん」

リップサービスも相まって笑いを誘う。しかし、本心では大学進学を親にひっくり返され、忸怩たる思いもあったのかもしれない。

それでも板東は抗うことなく、中日入団を決めた。そして1959年、甲子園のスーパースターはプロ野球選手となった。

1年目から二桁勝利を期待されたものの、開幕から83日目、三度目の先発となった国鉄戦で6回2失点に抑え、ようやくプロ初勝利。ルーキーイヤーは4勝4敗に終わった。

2年目には先発ローテーションに入り10勝11敗。3年目には21歳で開幕投手を務めた。この年も12勝10敗を挙げ、中日のスターへの階段を上っていった。

ところが、その裏側では、あの2000万円の契約金を巡って思わぬ事態が起きていた。