最初に手を上げたのは巨人だった

「僕はずっと教師になりたかったんです。慶應はお坊ちゃん、早稲田には貧しい人が行くというイメージがあって、僕は早稲田に行きたかったんです」

1958年夏の甲子園で、徳島商業のエースとして大会83奪三振の大会記録を樹立した板東英二(2018年夏からタイブレーク制が導入されたため、この記録は今後、破られることはない不滅の記録と言われている)。

準々決勝の魚津高校戦では延長18回を投げ抜き、25奪三振。0対0のまま引き分け再試合となった一戦は、高校野球史に残る伝説となっている。

徳島商時代の板東英二さん(写真/共同通信社)
徳島商時代の板東英二さん(写真/共同通信社)
すべての画像を見る

そもそも延長18回で引き分け再試合というルールが作られる契機のひとつとなったのも、板東の投球だった。

同年の春季四国大会で、徳島商業のエースだった板東は準決勝の高知商業戦で延長16回を完投。その翌日の決勝、高松商業戦でも延長25回をひとりで投げ抜いた。2日間で計41イニング。そんな鉄腕ぶりから、板東は“戦後の怪物”と呼ばれた。

当然、卒業後の進路にも大きな注目が集まった。

甲子園で超人的な活躍をしたことで“超高校級”と騒がれ、マスコミは板東の進路を巡ってプロか進学かと報道合戦を繰り広げた。

だが、本人の希望は最初から大学進学だった。

「僕はとにかく、学校の先生になりたかったから大学に行くつもりだった」

第一志望は早稲田だったという。

一方、高校3年の夏前には、関係者の伝手で慶應野球部の稲葉誠治監督が徳島商業へ指導に訪れている。そこで板東を見た稲葉監督は「いい投手がいるなぁ」と目をつけた。

甲子園後には板東自身が上京し、慶應大学で入学を前提とした模擬テストを受けている。慶應進学は規定路線となっていた。

しかし、“戦後の怪物”をプロ野球球団が放っておくはずがなかった。

当時はドラフト制度がなく、選手獲得は自由競争。スピード、球のキレ、スタミナと三拍子そろった超高校級投手を獲得しようと、各球団が板東のもとへ押し寄せた。

最初に来たのは巨人だったという。

「僕が、プロ入り表明するわけがない。僕はとにかく、学校の先生になりたかったから大学に行くつもりだった。

最初に巨人が来たんだけど、すぐに断ったため、それから報知新聞が、板東は金を釣り上げるためにプロとの交渉を渋っているといったネガティブキャンペーンを展開されたけど、国体に出るのでプロとの交渉はできないじゃないですか。まあ、いろいろ書かれました」