「責任ある積極財政」の責任の所在
「責任ある積極財政」
高市総理、片山財務大臣が繰り返し口にする言葉である。しかし、私はこの言葉を聞くたびに、一つの疑問が頭から離れない。その「責任」は、一体誰が取るのだろうか。
政治家の世界で責任とは、多くの場合「辞任」で終わる。支持率が下がれば辞める。選挙に負ければ辞める。不祥事があれば辞める。
しかし、それは本当に責任を取ったことになるのだろうか。一度膨らんだ国債残高は消えない。傷ついた円の信認も、一度失われた国際競争力も、辞表一枚で元には戻らない。政治家は辞任できる。しかし、日本国民は辞任できないのである。
その象徴的な場面を私は今でも鮮明に覚えている。高市総理が就任後初めて迎えた衆院選の選挙速報番組で、爆笑問題の太田光氏が物価高対策に触れ、「もし出来なかった場合は、どう責任を取るのですか」と問い掛けた。
これは単なる揚げ足取りではない。日本の政治は、結果が出なかった時の責任の所在が曖昧になりがちではないかという、多くの国民が抱く疑問を代弁した質問だった。
責任の所在を「何か意地悪やな〜」でごまかす高市
すると高市総理は、「何か意地悪やな〜、最初からできへんと決めつけんといてください」と急に焦った様子で関西弁で応じ、その後も「一生懸命やるだけです」という趣旨の説明に終始した。
もちろん、一生懸命取り組む姿勢を否定するつもりはない。しかし、それは責任とは別の話である。努力は責任ではない。結果に対する責任を問われている場面で、「頑張ります」と答えるだけでは自己満足の域を出ない。
だからこそ、「睡眠時間はゼロから3時間です」と激務を語る姿にも私は違和感を覚える。それだけ働いているという自己アピールなのかもしれないが、国民が求めているのは睡眠時間の短さではない。結果であり、その結果に対してどのように責任を負う覚悟があるかなのだ。













