湾岸戦争と高市政権――繰り返される“対米追従”

ウラジーミル・プーチンによるロシアのウクライナ侵攻を皮切りに、目下、世界中で戦争が起きている。ベネズエラのニコラス・マドゥロ政権の転覆に味をしめた米大統領のドナルド・トランプがイラン攻撃に踏み切り、ペルシャ湾岸地域の戦況が泥沼化している。世界中がホルムズ海峡封鎖の影響を受け、戦争終結の道筋も見えない。

もっとも石油問題を巡る中東の紛争は今に始まったことではない。1973年の第一次オイルショックのことがしばしば取り沙汰されるが、世界の安全保障という観点からすれば、90年代に起きた湾岸戦争が現状に近いかもしれない。

ペルシャ湾問題で何一つ対処できない現高市政権とは裏腹に、90年の湾岸戦争のときも日本の役割が問われ、対応に迫られた。

1991年1月17日、イラクのバグダッドを空爆する多国籍軍。 写真:ロイター/アフロ
1991年1月17日、イラクのバグダッドを空爆する多国籍軍。 写真:ロイター/アフロ

もともとペルシャ湾岸では、シーア派でペルシャ人のイランとスンニ派でアラブ人のイラクという民族対立から互いの軍備増強を競ってきた。結果、どちらも経済的に疲弊し、サダム・フセイン率いるイラク共和国防衛隊が1990年8月2日、米国を後ろ盾に債務返済を迫ったクウェートに軍事侵攻し、翌1991年1月に湾岸戦争の幕が開く。

折しも、日本の政界がリクルート事件による政治とカネ問題で揺れていたさなかの出来事だ。山崎拓は、このときの状況が今と似ていると言う。

「湾岸戦争のときも米国から自衛隊の掃海艇派遣を要請する構想が持ち上がりました。そのときの部隊長の父親が、太平洋戦争の沖縄戦で有名になった大田實海軍司令官。海軍の地上部隊を率いで『沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と電文し、命を絶った方です。

湾岸戦争のときの掃海艇の部隊長はその三男だから、戦争の悲惨さを知っていたのだと思います。後藤田さんが猛烈に反対し、結局、自衛隊の掃海艇は湾岸戦争が終わったあとの派遣になりました。今回のイラン戦争でも同じように掃海艇の派遣を米側から要請され、高市首相は派遣しようとした。しかし、そこでも反対が起きましたよね」

後藤田正晴は戦前の1914(大正3)年8月、徳島県麻植郡東山村(現吉野川市美郷)に生まれ、東京帝大法学部を卒業した39(昭和14)年4月に内務省に入省する。まさしく戦中派の官僚代議士である。

戦中は陸軍の徴兵に応じて二等兵からスタートして41年12月の太平洋戦争開戦時は陸軍主計少尉だった。終戦後に警察庁に移り、69年8月に警察庁長官に就任する。

警察庁退官後、奇しくも田中角榮が自民党総裁として首相に昇りつめた72年7月の第一次田中内閣発足時、事務担当の内閣官房副長官に抜擢される。以来、田中の懐刀として霞が関の官僚組織に幅を利かせ、自らも政界に進出する。

後藤田の地元は田中のライバルでロッキード事件を追及してきた三木武夫の選挙区である。後藤田本人はそこで74年に参議院選挙に出馬した。だが、自民党公認を巡る保守分裂選挙となり、後藤田自身は三木派の候補者に敗れて落選する。

のちに「阿波戦争」「三角代理戦争」と異名をとり、後藤田陣営に選挙違反者を出した凄絶な選挙戦である。後藤田は76年12月に衆議院議員に鞍替えして初当選し、ここから中選挙区制時代にずっと自民党内の派閥の領袖だった三木と選挙を争ってきた。

米大統領のトランプは眼下のイラン戦争におけるホルムズ海峡の機雷除去について、高市政権に日本の自衛隊派遣を求めてきたといわれる。高市が先の日米首脳会談でそれに応じるのではないか、という懸念があり、内閣官房参与の今井尚哉が彼女を諫めたとされる。そこについて、山崎はこう語る。

「自衛隊の掃海艇派遣に反対した今井さんは、後藤田さんと同じ役割を果たしたことになります。それは湾岸戦争のときのことを念頭に置いていたはずです。

彼は経産省の高官でもあったけれど、経団連会長だった今井敬(新日鉄元会長)の甥で優秀な人材です。今井さんは安倍政権を支えてきたので、今回もその役割を果たしたのでしょう。けれど、おかげで高市首相が気に入らず、二人のあいだにミゾができたようにも聞いています」

高市政権にはブレーンがいないといわれる。山崎はこう切って捨てる。

「高市政権では木原稔官房長官という側近がいます。けれど、残念ながら後藤田さんのような懐刀がいない。政治家でいえば時代とともに官邸のなかの人間が移り変わっていますが、ほとんどが二世や三世議員ばかりで、一代で議員になった政治家と比べると、スケールがどんどん小さくなっています。

だからトランプ大統領などに対抗できないのです。議員本人に戦争体験がないということが、その一つの理由に挙げられるでしょう。乳母日傘で育ってきた二世や三世で、戦争の苦労を知らないから、人間的な魅力もありません」

実際、米国追従一辺倒の高市外交を見ていると、山崎の指摘は的を射ているように感じる。反面別の問題もある。自民党は議員個人の資質もさることながら、党員を含めた政党自体が変質しているのではないか。それは議員だけの問題でもなく、党のサポーターも含めた変化があるのではないか。

「要は自民党そのものが変わってきたということでしょう。これまで自民党を支えてきた地方の名士、名望家の人たちもいなくなっています。以前の自民党ならサポーターのなかに個人資本家がかなりいました。

やはり政治は経済と密着していて、終戦後はとくに経済が政治を支えてきました。私のささやかな体験でいえば、福岡県発祥のブリヂストンの石橋家と縁があり、同じ県内の石油の出光興産には私の親友がいましてね。

出光といえば、1953年に日章丸事件が起きました。私の高校時代のことです。イラン革命が起きる前で、英国がイランの石油を支配していて輸出を止めた。そのとき出光の石油タンカーである日章丸が英国の監視をかいくぐって日本に石油を運んだのです。

あのとき、ことの陣頭指揮を執ったのが創業者である出光佐三の弟さんでした。私は出光佐三氏に非常に世話になりました。自民党に入る前、無所属非公認で選挙に出たときなどは、そうした個人資本家にずい分応援してもらいました」

山崎は早大卒業後、ブリヂストンに5年間勤務しており、選挙でも支援されたという。山崎の言った無所属の選挙とは、中曽根に勧められて初めて国政選挙に立候補した1969年12月の総選挙を指している。

山崎は保守系無所属で出馬したが、あえなく落選し、72年12月に初当選するまで浪人生活を余儀なくされた。その間、企業の支援を仰いだ。山崎が言葉を補う。

「自民党にはそうした個人資本家のサポーターがたくさんいました。中曽根派では、三井財閥グループの大立者として名を成した北炭(北海道炭砿汽船)の萩原吉太郎さんや戦時下に日本の映画界をまとめ上げた大映の永田雅一さんなどの名前が浮かびます。中曽根さんの地元でいえば、群馬県出身の山種証券創業者の山崎種二さんなんかでしょうか」

山崎種二は中曽根をはじめ福田赳夫ら自民党大物議員のスポンサーとして知られる相場師である。カラ売りを得意とする「売りのヤマタネ」と異名をとって大正時代に米相場で財を成した。

1936(昭和11)年2月の二・二六事件によって株価が大暴落した局面でも大儲けし、44年には証券会社4社を統合して山崎証券(現山種証券)を設立した。山崎は政官財界に閨閥を張り巡らせた。

中曽根と同じ群馬県出身の福田の妻は山崎夫人の従姉妹、現内閣官房参与の今井尚哉の叔父にあたる元通産事務次官の今井善衛は長女の夫にあたる。元運輸事務次官の住田正二は山崎の次女の夫であり、中曽根はその縁もあって国鉄民営化の際にJR東日本初代社長に抜擢したといわれる。

自民党と実業家とのつながりはさまざまに語られてきた。山崎拓の話した永田は大映社長として1950年8月、黒澤明監督映画の『羅生門』を公開して大ヒットさせたほか、プロ野球「大映スターズ(現千葉ロッテマリーンズ)」のオーナーでもあった。

大風呂敷を広げる癖があって「永田ラッパ」と揶揄される反面、黒幕として映画界だけでなく政界にも力がおよんだ。また萩原は三大財閥の一角を占める三井合名に入社したあと、北炭に移籍して右翼の児玉誉士夫らの力を借り、終戦後に北海道における炭鉱開発や海運業で辣腕を発揮した。

永田とも交流があり、日本プロレスリング協会を立ち上げ、横綱大鵬幸喜の後援会会長としても勇名を馳せた。政財官や芸能スポーツ、裏社会が深く結びつき、戦後復興や高度経済成長を成し遂げてきた日本社会にあって、彼らが黒幕として大きな役割を果たしてきた事実は否めない。

さらにいえば萩原は田中角榮が郵政大臣の頃、北海道放送に続く第二の民放局として事業認可を得て札幌テレビ放送の開局にかかわり、社長に就任した。それも自民党との結びつきを象徴する出来事といえる。

田中が福田赳夫と総裁のポスト争いを演じて第一次内閣をつくった1972年、中曽根は田中に寝返った。このときの派閥工作資金を用意したのが、北炭の萩原だった、とのちに福田派の幹部が週刊新潮に暴露したこともある。山崎が言葉を付け加える。

「応援する実業家や資産家は、みなそれぞれに政治家や党に寄付してきたわけです。今はそれがなくなったので、誰もが政治資金に苦しんでいる。自民党に限らず、今回の総選挙で落選した中道改革連合の議員もそうでしょう。

この人が落ちるのか、という大物がボロ負けした。新しい党首や幹事長は、彼ら落選議員をどうやって救済するか、頭を悩ませていることでしょう。企業・団体献金を禁止し、政治資金パーティだけなら解禁していい、というようにも言ってるけれど、それで乗り切れるかどうか」

かつての自民党では、個人の資産家や事業家の献金が政治活動を支えてきたというが、中選挙区制時代はその裏で、党内の派閥の議員が選挙区の公認候補をめぐって争い、選挙区が広いために多くの資金が必要となってきた。そこでリクルート事件を機に1994年から小選挙区比例代表並立制が導入された。

小選挙区制の導入は米英のような政権交代可能な二大政党政治を目指したとされる。実際、この前年の93年8月に日本新党の細川護熙が首班指名された非自民の連立政権が組まれ、09年9月には民主党政権が誕生した。

だが、どちらも政権を担う能力に欠けていたといわざるをえない。その反動により、自民党が復権し、2012年12月に第二次安倍晋三政権が生まれたと言っていい。

そして、その安倍派の足元で政治資金パーティによる裏金問題が起きたのは、周知のとおりである。古くは造船疑獄、さらにロッキードやリクルート事件を経てなお、政治とカネの問題は決着を見ていない。

自民党の裏金問題は安倍・菅による一強政権の驕りが招いたと批判され、岸田文雄、石破茂と首相ポストが目まぐるしく移った。

そこでは「いったい小選挙区制導入の意味は何だったのか」と非難され、政治改革議論の高まりと同時に、企業・団体献金の廃止問題が国会の与野党議論の焦点になる。

挙句、政治資金はおろか、党内調整に右往左往して政治改革などに手をつけられない石破政権は選挙に負け続け、高市早苗に自民党総裁の椅子が転がり込んだ。結果、政治改革などどこ吹く風である。政治とカネ問題について山崎が嘆く。

「衆議院選挙が小選挙区制になり、前の中選挙区制時代に比べるとカネがかからなくなったのは事実です。小選挙区制になり、政党交付金という税金も配られるようになりました。けれど、それでもカネは必要です。

個人の資産家がこれと見込んだ有望な国会議員を支援するのは、政治参加という観点からも一概に禁じるべきではないかもしれません。なにより仮に今のまま企業・団体献金を廃止すれば、大金持ちしか国会議員になれない恐れが出てきます。

官僚派や党人派の多かった自民党内にも、以前から資産家の議員はいました。藤山コンツェルンの藤山愛一郎さんなんかが典型ですが、現役の議員でいえば麻生太郎氏でしょうか」

国会議員になるための条件として永田町に伝わる「地盤、看板、カバン」という言葉がある。そのうち、カバンはまさしく政治資金を指す。

代々、選挙区を引き継いできた二世や三世議員は、この3条件を併せ持っているからこそ、自民党内の大半を占めているといえる。しかし資金力のないたたき上げや官僚派の国会議員がいなくなれば、政党政治の劣化を招く。

山崎拓氏。撮影:内藤サトル
山崎拓氏。撮影:内藤サトル
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