公認なし、無所属で出馬
――中川氏が他界した年の83年12月の衆院選に出馬し、初当選しました。同じ選挙区(旧北海道5区)で中川氏の長男・昭一氏と争い、「骨肉の争い」と言われるようになりました。
中川先生はご自身に何かあれば、私を後継者にと考えていました。後援会や事務所内からも私を推す声が出て、衆院選に出馬することになりました。
中川先生の奥様は後継者に長男の昭一さんを考えていましたから、私はマスコミからも「裏切り者」扱いされ、強いバッシングを受けました。
「FOCUS(フォーカス)」という写真週刊誌がありましたが、この年に最も多く掲載された政治家が田中角栄先生で12回、次が私の11回でした。政治家になる前なのに注目されました。
中川先生と仲が良かった金丸信先生は「俺に任せろ、俺が鈴木宗男の後見人だ」と、自民党公認で出すと約束してくれましたので、党の実力者が太鼓判をおしてくれたと安心しました。
ところが、公示直前になっても公認が出ない。東京に飛んで金丸先生に確認しましたら「35歳で国会に出ようとしている奴が公認なんて言うな。早く帰って選挙をやれ」と、約束なんて覚えていないとばかりに言うのです。
偉くなる人は頭が違うなあと思いました。
そして無所属で戦う、厳しい選挙になりました。最も支えてくれたのが同郷の松山千春さんです。当時、フォークソングの世界でのスーパースターでしたから、松山さんが一声出せば人が集まってくる。本当にありがたいと思いました。
真冬の選挙で連日マイナス20度以下の冷え込みでしたが、選挙カーは箱乗り。窓を全開にして身を乗り出し、声を張り上げて手を振りました。ジャンパーもアノラックも着ない、背広で戦い抜きました。
その時から「箱乗り」をしました。今や選挙になると「ムネオの箱乗り」が話題になりますが、44年前からの私の専売特許です。
やはり政治家は体が資本。体力がなければ選挙は勝てない。今でも時間があればジムに寄ってランニングするなど鍛え続けています。
――再選を重ねながら橋本政権で北海道・沖縄開発庁長官として初入閣、小渕政権で官房副長官、自民党総務局長(現・選対委員長)を歴任。政界で順調に出世しましたが、2002年にあっせん収賄容疑で東京地検特捜部に逮捕されました。無実を訴えましたが、認められずに実刑が確定。まさに転落人生です。
小泉純一郎さんが首相となり、政権の政策が新自由主義的なものに転換されました。理念が異なる私の立場は自民党内で悪くなりました。外務大臣の田中真紀子さんとの確執もあり、検察による国策捜査の標的になったのです。
権力の世界ですから、妬み、ひがみ、やっかみは凄まじい。無実を訴え続けたために437日もの長い間勾留されました。政治家としてそれなりのことはやった、胸を張ってもいいという思いはありましたね。
ただ、このまま世の中から退場するのは納得がいかない、我慢できませんでした。今にみていろ、必ず戻ってやるという強い気持ちを持って踏ん張りました。














