飯舘村は日本の最後の「未来」
藤原 この『百年の挽歌』という本は、2011年の出来事を扱っているように見えて、実はそういう本ではない気がしてなりません。さきほどお話しした昭和100年、戦後80年も描いていますが、それだけでもなくて、何かの原型を見せてくれるような気がします。今の土の問題もそうだし、まきのお風呂で温まる話もそう。人が健やかに生きていくためには何が必要なのか、それを思い起こさせる。
原子炉の火を最先端の技術というけれど、突き詰めれば、お湯を沸かしてタービンを回すだけの技術に過ぎない。一方で、人間がずっとやってきた、薪を焚いてお風呂に入るという方法は、熱の極めて合理的な使い方であり、安全性もある。私たち人類は、火を起こせなかった時代が長かったんです。山火事の中で得た火を大切に守りながら、消えたら隣の村にもらいに行っていた。そのくらい火は重要で、火を中心に食を囲んでいた。この本に感じるのは、そういう人間の営みの原型です。人類学的にそこに引き戻してくれた。それが印象に残りました。
青木 たしかにそう言われてみれば、湯を沸かすのにウランを核分裂させるのと薪を燃やすのは、原理としてはまったく同じですね。しかも大久保家の湯沸かしに使う薪は周囲の山林からいくらでも調達できたし、着火材代わりに使っていたのは杉の枯れ枝でした。僕も田舎育ちだからわかるのですが、乾燥させた杉の枯れ枝って、油分を含んでいてよく燃えるんです。余談ですが、白樺の木の樹皮も同様で、焚き火の際に着火材として使うと都合がいい。
藤原 そんなに燃えるんですか。
青木 ええ、よく燃えるんです。そう考えると、わざわざ外国からウランを持ってきて、人間の手に負えないような廃棄物を大量に出すエネルギー源より、身近にあるもので湯を沸かす方がずっと合理的であり、すべてをそれでまかなうのは現実的に困難とはいえ、地球の裏側からエネルギー源を調達するより、それぞれの地の特性に応じた再生可能エネルギーなどを中心とし、地産地消で回していく方途を追求したほうがいい。
藤原 なぜそれを私たちは、近代や現代、あるいは未来と呼ばなかったんだろうかと思うんです。今バイオマスと言われているたくさんのエネルギー源をみすみすほおっておいて、多くの森林を東南アジアからカッティングして大型船に乗せて石油を使って持ってきている。そうやって何重にもロスをしながら、そのロスをした分、誰かにお金が入るような経済システムにしているんですね。青木さんのお書きになった飯舘村の物語は、近代化に駆逐された日本の最後の未来だった気がします。
構成/宮内千和子 撮影/三好祐司














