「壊しては作る」儲け主義の代償として
青木 もとより近代化を全否定などしませんし、われわれもその恩恵を一身に受けているわけですが、しかしなぜ日本の風景はここまで陳腐な画一化、均質化に向かってしまったのか。昔ながらののどかな風景をもっと残したっていいはずだし、地方ごとに息づく多様性がもっと残されてもよかったはずです。それこそ「保守」を自称する者たちこそ、最も強く訴えて固執するべきだったのではないか、とも思わされます。
藤原 二つほど、理由があると思います。ひとつは、日本精神史にある気がします。あの悲劇的な戦争をもたらしたのは、日本の田舎主義や村社会に根を下ろす旧態依然とした精神性であると。そういう日本精神史的な反省があって、戦後は日本文化への蔑視や破壊が急速に進んだんじゃないかと思う。
2点目は、壊して作るというスクラップ・アンド・ビルドというモデルが一番経済成長に役立つという認識でしょう。壊してはつくる、壊してはつくる。日本の使い捨て文化の圧倒的な恐ろしさは、この反復から滴る地域開発のうまみからきているわけです。日本人は、自分たちが暮らす風景さえも、そういう経済システムの中に入れてしまった。そのふたつが要因じゃないかと思います。
青木 さらに細かく見れば、大店法(大規模小売店舗法)の改変による影響なども大きかったのではないですか。かつては中小の商店を保護する目的で大型商業施設の新設はかなり規制されていたけれど、1990年代に入ると日米構造協議、つまりは日本の市場開放を迫るアメリカの圧力などを受け、規制は大幅に緩和された。これにクルマ社会の本格化なども相俟って、それなりの個性を有した駅前や地域の商店街、繁華街が廃れ、郊外や国道沿いなどへと人の流れが移っていってしまった。
藤原 その通りだと私も思います。大店法の規制緩和などによって、イオンのような大型店舗がショッピングモールに入り、そこにマクドナルドやケンタッキーといったグローバルチェーンが入居するフードコートができる。アメリカ牛を使った牛丼屋さんもそうだし、ドーナツ屋さんもインドネシアのパームヤシのオイル使用なので、海外のグローバルな食品産業のネットワークが大店法を通じて地域に組み込まれていくと。それで何が起こるかというと、地域の食文化が徐々に崩壊していくわけです。20世紀に欧米が辿ってきた同じパターンを日本は凝縮して繰り返しているようにみえます。
青木 グローバル化にも功罪はもちろんあれ、明らかに罪に類すべき部分まで無定見に受容して希少な地域文化や景観を破壊してしまった面があると。
藤原 ありますね。グローバリズムには、みんな同じような文化と技術を謳歌できるというイメージもありますが、それと裏腹に、そこにしかない人と自然とのネットワークを破壊していく側面もある。僕の研究からいうと、食べ物に一番出ると思うんですが、食だけでなく、木組み細工や、陶芸、木工、金工、漆芸とか、地域の特徴がどんどん失われていくことと深く関わっていると思います。
青木 なかでも藤原さんが専門とする食に関しては、僕が感じた飯舘村の「豊かさ」についてあらためて考えてみたいんです。今作のなかでも記しましたが、「近くにスーパーもなければ不便だろう」などと言われるけれど、そんなものの必要性はさして感じていなかったんだと、僕が取材した村人たちは言うんですね。
田畑ではコメも獲れるし野菜も獲れる。それこそ天然の山菜やキノコ類なんて、高級スーパーをいくら訪ね歩いても容易に手に入らない。これは僕の実家あたりもそうですが、家の畑で育てた野菜が食べきれないほど収穫できたら、近所の知人にお裾分けし、すると近所の知人からは別の野菜や山菜などが返ってきたりする。
それに飯舘村は、南相馬市の市街地などがさほど遠くないんです。だから週に1度程度、そうした街にあるスーパーに行って肉や魚、それに調味料の類をまとめ買いしておけば、村内にスーパーがなくても不便などほとんどない。調味料だって、家によっては味噌なども自家製で手作りしたりしている。かなり自給自足に近い生活を営んでいたわけです。地元できちんと食の営みが回っていた。ある意味、これほど豊かで安全なことってないでしょう。
藤原 おっしゃるとおりで、食べ物とは本来できる限り自分でつくって、仲間内で交換しやすいものであって、資本主義が高度化しなければ、商品化しなくてもよかったジャンルだと思うんです。一事が万事そうで、これでは金にならんと思われて、自給自足圏が崩壊していく。これは世界史の原理ともいうべき現象です。列島全体が開発主義で壊された挙げ句に残っていた桃源郷である飯舘村を、青木さんが取材対象に選んだのは、ある意味、宿命的なものを感じました。
青木 特に近代化した生活を謳歌する大都市を支え、だから過疎地に押しつけられた原発という巨大発電装置が、かろうじて残っていた自給自足の豊かな村落を破壊した。そういう村落を取材対象にしたのは、これは宿命というより偶然かもしれませんが、あまりに巨大な災害を目の当たりにして何をどう描くかたじろいでいた僕が、大久保文雄さんの自死という事実を知り、取材を進めるうちに描くべき道筋が見えていったわけですから、偶然が必然に変わったとはいえるのでしょう。言葉を換えれば、文雄さんが僕をそこにいざなってくれたのかもしれない。














