「泥棒の見張り」をしながらラーメン屋台を続ける
「天下一品」を取り上げるにあたって、まずは創業者である木村勉会長について語らなければならない。
木村会長は1935年生まれ。本書執筆現在「天下一品」グループの代表取締役会長を務めている。自らCMや番組などにも出演して「天下一品」を猛アピールしてきた木村会長だが、現在の「天下一品」をつくり上げるまでには紆余曲折の歴史があった。
20歳のころは京都の有名なナイトクラブでバーテンダーをしていた。お客さんのリクエストに応えてつくる飲みやすいカクテルが人気となり、指名を伸ばしていった。「目の前のお客さんにどうしたら喜んでもらえるか」という客商売の基礎がバーテンダーの経験で身についた。
その後、美容室の経営を経て、絵画販売の会社へ就職するなど転々としていたが、あるときその会社が倒産。いきなり仕事を失ってしまう。
当時、木村会長は親から借りた分を含めて手元には3万7000円しかなく、これを元手に始められる商売といえば屋台のラーメン屋ぐらいだった。
中国人の知り合いに中華そばのつくり方を教えてもらい、板金業者に廃材を加工して屋台をつくってもらった。さらに近所で不用になったドラム缶をもらい、念入りに洗って鍋の代わりにした。
そして大阪万博の翌年、1971年冬に、銀閣寺近くや四条の周りで、見よう見まねでつくったラーメンで屋台を引き始めた。
初日の売上は11杯。
これがいまに続く「天下一品」の始まりである。
初めはなかなかラーメンが売れず、仕入れに使えるお金もままならなくなってくる。
家財道具などを質に入れてお金を借りたり、市場で1束10本のネギを頼み込んで1本だけ売ってもらったりしてお金をやりくりし、なんとか商売を続けた。
何度となく「この場所で屋台を出すな」と警察に注意され、そのたび移動するも今度はやくざ者が店にやってきて「場所代を払え」と言われ、断るとボコボコに殴られた。
この状況のまま続けるわけにはいかないと、屋台の場所を固定することを考え始める。ここで目をつけたのが北白川にある石材店の空き地だ。市内中心部から北は岩倉まで、人が集まる京都市内のさまざまな場所を探し、ようやく見つけた場所だった。
初めは断られ空き地を貸してもらえなかったが、木村会長が何度も頭を下げに行くうちに、1つの条件を飲むことで場所を貸してもらえることになる。
それは「泥棒の見張り」である。













