オヤジが息子にだけは麺打ちを教えなかった理由
1980年創業の老舗で、店主の小白井邦夫(こしらい・くにお)さんが一代でその地位を築き上げてきた「火風鼎」(かふうてい)の味を日本一にしようと、今回エントリーを持ちかけたのは店主・邦夫さんの息子で、栃木県那須塩原市で「手打 焔」(ほむら)を営む小白井誉幸(たかゆき)さんだ。
「小学校2年の文集から将来の夢に『お父さんのラーメン屋を継ぐ』と書いてきました。結果、自分は別のラーメン屋をやることにはなりましたが、オヤジのラーメンが日本一だと思っていることには変わりはありません。
小学校時代から憧れのオヤジで、オヤジのラーメンが日本一だとずっと思ってきたので、それが現実のものになって本当に嬉しいです」(誉幸さん)
誉幸さんは1983年生まれ。「火風鼎」が1980年創業なので、生まれた頃にはもう実家はラーメン屋だった。誉幸さんが小学生の頃には白河駅前にあり、あまりお客さんは入っていないお店だった。
それでも、当時から誉幸さんは父のラーメンが日本一だと思っていた。将来はこの店を継ぐと心に決めていた。その後、店は白河市鬼越に移転してから大ブレイクした。
「オヤジは昔からポテンシャルはあったと思っています。人間力やカリスマ性も含めてすごかったなと。(移転してからは)どんどん取材が来るようになって、誇らしかったです」(誉幸さん)
高校2年ぐらいから麺打ちを始め、東洋大学に通うようになってからは木曜日までに授業を全部取り終え、週末の金・土・日は白河に帰って麺打ちをするという生活だった。帰省するたびに誉幸さんは300人前の麺を打っていたという。
「自分はどんどんラーメン作りを覚えたかったのですが、父はまったく教えてくれないんです。それが大変でした。初めて麺を作ったとき『こんなの使えねえ。捨てろ』と言われ、さすがに恨みましたね」(誉幸さん)
これだけやる気があるのになぜ教えてくれないのか誉幸さんはずっと疑問に思っていた。ある日、父にそのことを尋ねたことがある。
「オヤジは『教わったものというのは、教えてくれた人がいなくなったらダメになるものだ』と言ったんです。自分で自分の味を作り上げることが大事だということを教えたかったんだと思います。
『火風鼎』の麺は門外不出だと思われているかもしれませんが、実はオヤジはいろんな店に製麺を教えています。ですが、息子の自分には教えてくれないんです」(誉幸さん)