「家」のヴィジョンがない秀吉

秀吉の、生まれからきたもうひとつ大きな特殊性として、彼は「家」というものがわからなかった。武士にとって何が大切かというと血縁、血のつながりではないのです。家です。家のつながりこそが重要で、鎌倉時代、さらには平安時代から、「家が栄える」ことが武士にとって最大の目的でした。

しかし秀吉はそういうかたちでは行動していない。「豊臣家というものを繁栄させるためにはどうするか」というヴィジョンが、秀吉は根本的にわからなかったのかもしれません。とにかくそうした目的では動いていないのです。

たとえば鎌倉幕府において、源頼朝は源氏の一族という概念をつくった。室町幕府でも、足利の一族が各地に守護大名として配置されていて、それらが室町幕府を支えるという構成になっています。幕府の実権は斯波、細川、畠山といった家が握っていましたが、これらはみな足利の分家です。

歴代の権力者は、そのように政権を構築する。信長もまた織田一門というものをしっかりと確立しようとしていた節がありますね。

長男の信忠には嫡流として家を継がせる。そして次男の信雄、三男の信孝、このあたりにはしっかりと領地を分け与える。信雄には伊勢の領地を分配しています。四国遠征軍を送った際には、形式上は織田信孝が大将となっていました。あれは四国を占領した後に、四国の一国を信孝に与えることを考えていたのでしょう。そして将来は信雄や信孝の家が一門として、信忠の嫡流織田家を支える。さらにその下に家来の家がある。そうした「織田のかたち」を考えていた節がありました。

清須市の織田信長像 写真/shutterstock 写真はイメージです
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たとえば漢帝国では、各地に、劉氏の一族を王として配置していました。そのように一族をちりばめておいて、その上に皇帝の本家劉氏が君臨する。各地の王は、本家を支える。皇帝の下に王の一族をつくっておくという考え方が中国にはあるわけです。もっとも漢帝国の場合は、地方の王が力を持ちすぎて「七王の乱」が起こったのですが。

信長は中国の歴史書をずいぶん読んでいた形跡がありますから、おそらく漢帝国のことも知っていたのでしょう。織田家もまた漢にならって、各地に一門の家を配置する構想を考えていたと思われます。

ただしその構想は家臣たちにとってみると「結局、信長様は織田家だけを重んじていて、俺たちの立場はなくなっていくな」と感じられたことでしょう。特に明智光秀や羽柴秀吉などは強く感じていたのではないか。信長は、光秀でなくともいずれ他の家臣に殺される運命だったのかもしれません。