京都の権力者、秀吉
最後に、「地域」について考えておきたいと思います。秀吉は京都の人、京都の権力者でした。そのことは強く認識しておくべきだと考えます。
秀吉が「中国大返し」から帰ってきたのち、本拠地として考えたのは、石清水八幡宮の場所にある城(山崎城)でした。その城を本拠に織田家中との戦いを戦ったわけです。その後に大坂に大坂城をつくって移ります。
あれだけ大きな大坂城が非常に短い期間でできているところを見ると、おそらく信長のときに基礎工事は終わっていたのでしょう。信長としては、やがて安土から大坂へと本拠地を移す予定だった。秀吉はその工事を完成させて、大坂を自分の本拠地とした。
しかし彼はすぐに京都に聚楽第という政庁を建てる。聚楽第は城ではありませんが、秀吉はここを拠点として、政権運営を行うようになります。
さらに聚楽第の次に、秀吉は伏見城をつくって移ります。ここは「伏見城」というから誤解されるのですが、実質的には「京都城」なのですね。この城は隠居所として、贅を尽くしてつくられました。
秀吉といえば大坂、亡くなったのも大坂城というイメージがありますが、実は亡くなったのは伏見城。ずっと京都にいて、京都で亡くなっています。彼は京都の人、京都の天下人でした。秀吉は京都の周囲に御土居という、防塁と堤防も築いています。現在の京都の範囲を確定させたのは秀吉なのですね。
そこで考えなくてはならないのは、「京都の天下人」は伝統的にどのような意識を持ってきたのか。これは実にシンプルで、古代の天皇から秀吉にいたる天下人たちの意識は、当然ですが、「畿内中心」でした。
日本の権力者とは、要するにずっと京都の人。一時期、鎌倉に政権を置いた源頼朝がいましたが、この政権はあくまで京都の朝廷勢力に対するアンチテーゼでした。もし朝廷と対立する武士の政権を畿内につくろうとしていたら、すぐに潰されていたでしょう。当時の関東は都から見て辺境です。荒くれものの集団が辺境に集っていたからこそ、彼らは存在を見逃してもらうことができました。
しかしやがて150年の時を経て力をつけると、武士たちは京都に移ってしまいます。実力がないから鎌倉にいただけであって、力さえあれば都に行きたかったのですね。だから足利尊氏の段階になると、武士の政権も京都に移った。やはり京の都の求心力は、非常に強力なものがあります。
ただし信長の場合は少し違っていて、この人はそこまで京都に執着はなかったようです。秀吉は、そこはわかりやすくて、京都に行きたい人でした。田舎者でスレていないだけに、京都への憧れが強かったのでしょう。













