「記録」ではなく「記憶」に残るジャンボ尾崎

1947年徳島県生まれ。1964年春、徳島海南高校のエースとして選抜甲子園に出場して優勝、その後、プロ野球・西鉄ライオンズを経て野球を諦め、プロゴルファーに転向してからは、日本プロゴルフ界の大大大大レジェントとして君臨していたことは、すでに多くの追悼記事で書かれていることと思います。

今回の訃報に接してJGTO(日本プロゴルフツアー機構)会長・諸星裕氏が「男子プロゴルフのトーナメント記録には『尾崎将司』の名が“これでもか”というくらい多く出てきます」とコメントしているように、通算勝利(国内男子ツアー最多の通算94勝〈ツアー制度以降〉に加え、通算113勝)や賞金王獲得回数(12回)など、その打ち立てた記録は文句なく圧倒的です。もうこんな記録を残せるゴルファーは現れないとも思わせます。
しかし、ポンコツゴルファー歴40年の筆者にとっては“ジャンボ尾崎”というプロゴルファーは、やはり「記録」より「記憶」に残るゴルファーなのです。

ゴルフの常識を覆したチャレンジの数々

ジャンボ尾崎さんが鮮烈なデビューを飾った1970年代初頭、筆者はまだ高校生で「ゴルフ?? なにそれ??」状態でした。
10年ほどの低迷期を経て、1988年に11年ぶりの賞金王を獲得してから90年代末にかけては、まさに無双状態。1998年までほとんど毎年賞金王という全盛期がやってきます。ジャンボ尾崎さんの強さが際立てば際立つほど、ゴルフというスポーツはその熱量とともに、どんどん一般的になっていきました。

1980年代半ばにゴルフを覚え、会社の先輩にスウィングを教わりながら、「打ったらとにかくクラブを2〜3本持って、ボールの行方に向かって走れ」との指導のもと、コースデビューをした身にとって、圧倒的な飛距離と繊細な小技、独自のファッションと道具(クラブ、シューズなど)に対するこだわりを見せてくれるジャンボ尾崎さんは「神」でした。
ゆえに、当時30代になろうかという筆者は、自分の体力と年齢を、そして何よりも己れのゴルフのポテンシャルを過信していました。ジャンボ尾崎さんが実践する、それまでのゴルフの常識とは異なる新たなチャレンジをことごとくマネしたのです。

優勝カップを手に喜ぶジャンボ尾崎さん、プロ通算100勝目。ド派手なウェアはトレードマーク(1996年11月17日、フェニックスCC/共同通信)
優勝カップを手に喜ぶジャンボ尾崎さん、プロ通算100勝目。ド派手なウェアはトレードマーク(1996年11月17日、フェニックスCC/共同通信)
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今となっては常識ですが、金属製ヘッドのドライバー(テーラーメイド/バーナー)をツアーで使い始めた先駆けはジャンボ尾崎さんでした。ヘッド体積は、たしか230CC程度で、現在の半分ほど。
それをジャンボ尾崎さん特注(本当に特注かどうかは不明)の10センチ以上もあろうかという超ロングティで高々とティアップ。それをオープンスタンスからインサイドアウトにインパクトして高いドローボールを打つ(ようにポンコツゴルファーからは見えました)のがジャンボ尾崎さんスタイル。
こんなことをろくに練習もしない素人がマネするとどうなるか? 当然、ろくなことになりません。でもあの頃のゴルフ場や練習場には、そうやってジタバタしてる人がたくさんいました。