「ヒューマニスティック・キャピタリズム」
クチネリさんは自身の経営思想を「ヒューマニスティック・キャピタリズム」という言葉で表現している。
簡単にいうと「人間のための資本主義」だろう。お金のためのビジネスや、会社のための社員、という考え方に吞み込まれそうになった自分の経験や、仏門の師・佐々井さんにいわれた「お前はそれ(会社)を何のためにやっているのだ」という問いを思い返すと、このヒューマニスティック・キャピタリズムは本当に共感できるし、見習うべき一つの解だと思っている。
また、社会経営思想家の山口周さんが書いていた次のような主張も思い出した。
私たちが過去200年にわたって連綿と続けてきた「経済とテクノロジーの力によって物質的貧困を社会からなくす」というミッションがすでに終了していることを示しています。この状況は昨今、しばしば「低成長」「停滞」「衰退」といったネガティブな言葉で表現されていますが、これは何ら悲しむべき状況ではありません。古代以来、私たち人類はつねに「生存を脅かされることのない物質的社会基盤の整備」という宿願を抱えていたわけですから、現在の状況は、それがやっと達成された、言うなれば「祝祭の高原」とでも表現されるべき状況です。
21世紀を生きる私たちに課せられた仕事は、過去のノスタルジーに引きずられて終了しつつある「経済成長」というゲームに不毛な延命・蘇生措置を施すことではなく、私たちが到達したこの「高原」をお互いに祝祭しつつ、「新しい活動」を通じて、この世界を「安全で便利な快適な(だけの)世界」から「真に豊かで生きるに値する社会」へと変成させていくことにあります。
(『ビジネスの未来│エコノミーにヒューマニティを取り戻す』プレジデント社、2020年)
クチネリさんのヒューマニスティック・キャピタリズムが息づいているソロメオ村は、村全体がとても美しいところだった。
彼らの作るカシミヤの色から連想したのかもしれないが、日本でも伝統工藝がこんなふうに元気になることで、各地の街がそれぞれの特色を活かし、もっとカラフルになるのではという想像をふくらませた。
いま全国をしごとでめぐっていて残念に思うのは、例えば新幹線に乗るとどこの駅に着いても、均一化、無個性化によって似たような景色が広がっていることだ。でも、そこに生きる職人さんと話してみると、やはりその地域ならではの豊かな風土や文化があることを知る。
それらが伝統工藝を通じてより鮮やかに感じられるようになれば、日本の美しさにつながると思う。そんな大きな夢を改めて抱かせてくれた、イタリアへの旅だった。
クチネリさんはまだ若いころに熟練の職人たちを訪ねて回り、従来にないアイデアを持ちかけ、ときに呆れられ、ときに支えられながら、その情熱で道を切り拓いていった。国も文化も、そして扱うものづくりのジャンルも僕たちとは違うけれど、勝手に強いシンパシーと尊敬の念を抱いている。
彼の実践は、僕が一つの指針としている柳や佐々井上人の考え方ともそれぞれ響き合っているように感じる。クチネリさんのような域に達するにはまだ先は長いと思うが、人と自然、経済と自然のリズム、あらゆるバランスを大切にすることをけっして忘れないためにも、彼らの存在はいまの僕たちにとって大切な道標になっている。













