方向性の相違からメンバー間に不協和音が…
しかし、オジーが27歳となった1976年頃から、新たな音楽の波“パンク/ニュー・ウェイヴ”のムーヴメントが到来。従来の人気音楽が“オールドロック”として徐々に色褪せていく。
ブラック・サバスも例外ではなく、方向性の相違からメンバー間に不協和音が漂い始める。さらにオジーは、重度のアルコール問題を抱えていた。
「バンド内でもめ事が起こっている一方で、俺達は7作目となるアルバムの制作に取りかかっていた。(中略) この頃になると、俺達のアルバムの制作費用は馬鹿馬鹿しいほどの金額になっていたよ」
しかし、音楽シーンの表情が変わる中、この頃からブラック・サバスのアルバムの売り上げは下降線を辿っていく。レコード会社も予算を渋りはじめ、アメリカの国税庁からは、バンドに対して100万ドル単位の理不尽な税金の督促状が届いた。法的闘争の金が捻出できず、マネージャーも去って行った。
気が付くと、自分たちが何者なのか、すっかり分からなくなっていた。
「スタジオの中では、メンバーが『フォリナーみたいなサウンドにしよう』とか『クイーンのようなアレンジで』なんてことばかり言うようになった。実におかしな話だ。かつて俺達が影響を与えたバンドから、何かインスピレーションを得ようとしてるわけなんだから」
酒とドラッグに深く溺れたオジーは、周囲に対して酷いことを口にして、トラブルばかり起こすようにもなった。7枚目のアルバムのレコーディング中に身体も精神もボロボロの状態となり、イギリスに戻った直後に自ら精神病院に入院することを希望した。













