運命のオーディション

1979年、オジー・オズボーンはブリティッシュ・ハードロックの伝説的バンド、ブラック・サバスにとうとう愛想を尽かした。

ドラッグと酒浸り、リーダー格であるトニー・アイオミとの修復不能な確執。そういったことが積み重なってのクビ同然の脱退劇だった。

失意の中、オジーは自らの活動をスタートさせるため、バンドメンバーのオーディションを行う。スターバンドを離れてのソロ活動。期待感よりも新しい自分を受け入れてくれるかどうかの不安のほうが大きかった。先が見えずに途方に暮れていた。

写真/shutterstock
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しかしある夜、運命的な出逢いが起こる。

「小さな奴が入って来てね。男か女なのかも分からなかった。でもギタープレイを聴いた途端、もう声も出なかった。俺はすごく酔ってたけど、一気に冷めたよ」

オジーの前に現れたのは、ランディ・ローズだった。

母親が経営する音楽教室で、地元の子供たちに(注1)ギターを教えていた寡黙な青年は、「クワイエット・ライオット」(注2)というLAのローカルバンドでも活動していた。

ランディはこのオーディションに乗り気ではなかった。とても受かる自信がなかったのだ。しかし、母親の勧めもあり、「出向くこと自体が経験になるから」と、無関心のままギターとアンプを持って出掛けることにした。

そして会場につき、ウォーミングアップのつもりで少し弾いていると、オジーはランディに近づいてこう言った。

「君に決まりだ!」

(注1) のちにオジー・オズボーン・バンドに在籍するジョー・ホームズもその一人だった。ランディはレッスンごとに手書きのメモを生徒たちに渡し、励ましの言葉を掛け続けたという。「できるだけ一生懸命練習しなさい。そうすればチャンスは必ず来る。その時のために」。また、幼い頃からランディ・ローズをヒーローにし、オジー・オズボーン・バンドにギタリストとして一番長く在籍したザック・ワイルドは、「ランディの曲をプレイすること自体が名誉なこと」と、来日時のインタビューで話している。

(注2)アメリカでのレコード契約が取れなかった彼らは、1978年に日本のみでデビュー。ランディ在籍時に『静かなる暴動』『暴動に明日はない』の2枚のアルバムを残すが、結局アメリカではデビューできなかった。同じ頃のLAでは、新世代のハードロック・バンドが産声を上げていて、その中にはヴァン・ヘイレンがいた。超絶的なライトハンドを奏でるエディ・ヴァン・ヘイレン。ランディはオジーと組んで美しいクラシカルな旋律を極める。まったくタイプの違うギターヒーロー二人は、80年代のヘヴィメタル・シーンに大きな影響を与えることになった。なお、クワイエット・ライオットは1983年に念願の全米デビュー。LAメタルシーンの起爆剤としてリリースしたアルバム『Metal Health』がビルボードチャートで1位、シングル『Cum on Feel the Noize』が大ヒットとなる快挙を遂げるが、その頃はもうランディは亡くなっていた。アルバムのクライマックスに収録されている『Thunderbird』はランディに捧げられた。