医師が突き付けた“最期”
このころから、血球の数値が上がらなくなってきた。「どうしても、外泊のあとの肺炎さえなければ、と思ってしまうんです」と母親は俯いた。時間軸が前後するが、2024年10月に母親は20年間勤めてきた会社を辞めた。「拓也のそばにいたい」。それは親としてできる精一杯だった。
だが翌2025年4月にふたたび肺炎がぶり返すと、人工呼吸器をつけなければならないところまで状態が下がった。看護師から「人工呼吸器を取り付けるまで、もう10分くらいはお話ができますから、話してください」と言われ、母親は拓也さんの手を握った。
このとき「頑張って治療するから」と意欲を見せる息子の姿が脳裏に焼き付いているという。肺炎になって以来、拓也さんが心に誓った「絶対治す」は少しも揺らいでいなかった。
一方で、2025年5月、母親には忘れられない光景がある。
「ちょっとしたアザも膿んだようになってしまって、『こんなに回復できない身体になっているんだ』と胸騒ぎがしました。痰にも血液が混ざり、拓也の身体が悲鳴をあげているのが目に見えてわかりました」
その後も拓也さんの状態は落ち込んでは持ち直し、だが確実に限界を迎えていた。8月24日、自力でトイレに行こうとした拓也さんは転倒し、さらに肺炎が悪化。
翌日、医師から“最期”についての提案があった。母親は人工呼吸によって肺を休ませることで、回復の見込みがあるのではないかと提案したが、医師からは緩和ケアを勧められた。
「できる治療はすべてやりました」。医師の言葉を聞き、突きつけられた未来と現実に、これまで母親の前では泣くことのなかった拓也さんが声を上げて泣いた。
「拓也は最後の最後まで、治療を決して諦めませんでした。『絶対に治す』と約束したからです。そして私に、『もう人工呼吸はしないよ、ごめんね……』と泣きながら繰り返したんです」
緩和ケアに切り替えると、拓也さんは眠る時間が長くなった。友人を病室に入れることが許可されたが、予想以上に訪れる人数が多く、途中で親族のみと制限された。












