後楽園球場の風がレフトからライトに

82年6月13日、後楽園球場での巨人対阪神戦。先発江川はカーブを多投しながらセカンドゴロ、ショートゴロで打ち取り、危なげないピッチングで3対0と七回を迎える。それまで阪神ピッチャーの工藤一彦と掛布の2本のヒットに抑えていた。当然、江川も勝ちを意識していても不思議ではない。

七回表、アレンがヒットで出てが、真弓を凡打で仕留めて二死。ランナーを二塁に置いて掛布を迎える。この日はバットを振れているのは掛布のみ。たとえ一発が出ても次の岡田に打たれなければ、もう掛布には回ってこない。

江川コンピューターは瞬時に計算し、今日の調子からすればランナーを溜めるよりも一発を打たれて走者を一掃したほうが、ランナーを気にせずにワインドアップで投げられる。掛布に2点取られても十分に勝てると踏んだのだろう。

江川は、完璧に抑えるよりも勝ちにこだわりべく、このような計算までできる投手だ。投手は、完全試合から始まってノーヒットノーラン、完封、完投、最後は勝利と、ランナーやヒットが出るたびに目標設定を変えていく人種だ。

最高のものを求めてマウンドに上がるのがピッチャーで、それだけの準備をしてきたという証拠でもあるのだ。このとき江川は最悪でも勝てる算段をする。これも2勝したら勝ち点がつく大学でのリーグ戦から学んだ。

周りから大学へ行ったのは遠回りだと揶揄されることも多かったが、人生に無意味なことなどひとつもない。

バッターは球場内の風の吹き方を敏感に察知する。特に甲子園をホームとしている阪神の選手はなおさらだ。掛布は、後楽園での風が浜風のようにライトからレフトへ吹いているのがバックスクリーン上の旗を見て気づく。掛布は、浜風と同じような風が吹いていると感じ、無理に引っ張っても意味がないと狙い球を変えた。

江川は、掛布が外角高めに狙っているのを読んだ。いくら掛布だろうが、俺のアウトハイのストレートを弾き返せれない、打ってもファウルだ。渾身のストレートを投げ込んだ。

「カキーン」

白球が暗闇の中を高々と切り裂いていく。おおおおおお、スタンドの観客がどよめく。掛布は上手くバットを上から被せて逆らわずにレフトスタンドに放り込みんだ。全盛期の江川のアウトハイストレートを流してホームランにしたのは掛布ただひとりである。

江川との対戦成績は167打数48安打、18四死球、21三振、33打点、14本塁打、打率二割八分七厘。江川からホームランを一番打っているのが掛布だ。

ホンモノの男が放る本気の球を嘘偽りなく勝負できたことが、掛布にとって最高の誇りである。それは江川も同じだ。

文/松永多佳倫

怪物 江川卓伝
松永 多佳倫
怪物 江川卓伝
2025/11/26
2,420円(税込)
448ページ
ISBN: 978-4087902181

令和に蘇る怪物・江川卓の真実――。

各時代の対戦相手、ライバル、チームメイトなど100人以上の関係者の証言をもとに、時代に翻弄された天才投手の光と影に彩られた軌跡をたどる評伝。

高校時代から「怪物」と称され、法政大での活躍、そして世紀のドラフト騒動「空白の一日」を経て巨人入り。つねに話題の中心にいて、短くも濃密なキャリアを送った江川卓。その圧倒的なピッチングは、彼自身だけでなく、共に戦った仲間、対峙したライバルたちの人生をも揺さぶった。昭和から令和へと受け継がれる“江川神話”の実像に迫る!

【内容】

はじめに

第一章 高校・大学・アメリカ留学編 1971年~1978年

伝説のはじまり/遠い聖地/怪物覚醒/甲子園デビュー/魂のエース・佃正樹の生涯/不協和音/最強の控え投手/江川からホームランを打った男/雨中の死闘/江川に勝った男/神宮デビュー/理不尽なしごき/黄金時代到来/有終の美/空白の一日

第二章 プロ野球編 1979年~1987年

証言者:新浦壽夫/髙代延博/掛布雅之/遠藤一彦/豊田誠佑/広岡達朗/中尾孝義/小早川毅彦/中畑清/西本聖/江夏豊

おわりに

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