楽曲を大切に思ってくれる人が今もいることが嬉しい
――まさにシンデレラストーリーですが、まだ10代でしたよね? 売れっ子になった時はどんな気持ちだったんですか?
私からするとシンデレラストーリーじゃなくて、急にエレベーターに乗せられた感覚でした。ずっと、ギャップを感じていましたね。大きなライブハウスでやるよりも、ちっちゃなライブハウスで地道にやって、ちゃんと一歩一歩階段を昇っていきたかった。
でも現実はいきなりエレベーターに乗せられて、1番上の方まで連れて行かれちゃって、状況や環境に気持ちが全然追いついていなかったです。贅沢な悩みですけど…。
――たしかに紅白歌合戦にも出場されてましたもんね! 出場が決定した時はどのようなお気持ちでしたか?
実は、あまりにも忙しくて他の音楽番組のお仕事と同じような感覚でした(笑)。感動してる暇もなかったというような感じで。
紅白が決まった時スタッフが、『うわー! 紅白決まったー!』って、ガッツポーズしてめちゃくちゃ喜んでくれたのでビックリしました。当時19歳だったこともあって『紅白ってそんなすごいん?』みたいな、どこか他人事というか俯瞰して見ていた感じでした。
ただ関西にいるおばあちゃんが、普段は音楽番組なんて見ないのに紅白だけは見ていて、今までは『孫が東京で音楽の仕事してるけど、ようわからん』状態だったのが、私が紅白に出ている姿を見てやっと『孫は音楽の仕事を東京で頑張ってる』と喜んでくれて、家族孝行できたことがすごく嬉しかったです。
――活動歴6年。「春~spring~」や「なぜ…」など多くの名曲を生み大したHysteric Blueですが、Tamaさんにとって楽曲たちはどのような存在ですか?
自分の分身であり…自分の子どもですね。そういうすごい大事な存在。今も私たち以外のたくさんの人が、Hysteric Blueの楽曲を大切に思ってくれていることは、本当に幸せなことだと実感します。自分の大切なものを他の人が大切に思ってくれるってすごく嬉しいことですよね。
平成の音楽シーンを彩ったバンドHysteric Blue。授業よりも食事よりも、Tamaが大切にした「歌」を聴けるのは一夜限りだ。
後編ではHysteric Blueの復活について彼女の本音を聞いた。
取材・文/吉沢さりぃ 撮影/矢島泰輔

















