「こんなレベルの低い質問が延々と行われているとは…」
「奈良の鹿」が国会を揺るがしている。あるいは、週刊誌が報じた国家公安委員長が男性記者の容姿を「クマみたいだね」と評したというオフレコのやり取り。
2025年11月、日本の国権の最高機関である国会、その予算委員会という国民注視の舞台で、立憲民主党の議員たちが貴重な質疑時間を費やしたのは、驚くべきことに、そうした話題であった。
立憲民主党の西村智奈美議員は、高市早苗首相が自民党総裁選の演説で行った「奈良の鹿」に関する発言を捉え、約15分間にわたり執拗に撤回を求めた。
首相が地元で間近に見たという、鹿が蹴られるといった事案に対し、西村議員は「外国人だけの問題なのか」と問い、最終的に「撤回」を要求した。ネット上では「予算に何の関係があるんだよ」「今話す議題でしょうかね」という、至極当然な非難の声が溢れたという。
同党の池田真紀議員に至っては、国家公安委員長が会見後に記者に漏らしたとされる「クマみたいだね」という発言について、「事実ですか?」「撤回してはどうですか。不謹慎です」と追及を続け、30分以上を浪費した。
日本保守党の北村晴男参院議員が、このやり取りに対し「こんなレベルの低い質問が延々と行われているとは。驚きだ」と自身のSNSに投稿するのも無理はない。
こうした愚行は留まるところを知らない。新内閣の理念を国民に示す最初の所信表明演説は、下品なヤジによって妨害された。
さらに野田佳彦元首相などは、首相の体調管理をネタに政府の深夜(午前3時)に及ぶ準備体制を批判しようとして、逆に首相の献身的な姿勢を際立たせるという「自爆」まで演じている。これは戦略的破綻の露呈である。彼らは政策論争どころか、「パフォーマンス」すらまともにこなせないのである。
神聖な道具が立憲の手によって単なる鈍器に
国会質問とは、本来、民主主義の根幹をなす機能である。立法府が執行部(政府)を監視し、その説明責任を問うための、最も重要かつ強力な「道具」のはずだ。
国民が選んだ代表者が、国民に代わって権力をチェックする。行政府が持つ「情報の優位」に対抗し、政府の行動を公の記録に残させ、場合によっては行政の過ちを正させる、そのための神聖な権利である。
だが、その神聖な道具が、いま立憲民主党議員の手によって、単なる「鈍器」として振り回されている。彼らの行為は、政治学が長年警鐘を鳴らしてきた議会機能の堕落、その典型的な症例である。
シェーン・マーティン氏が2013年に発表した論文『議会質問』は、この危険性を分析している。マーティン氏によれば、議会質問はその有益性とは裏腹に、深刻な弱点を抱えている。
「議会質問が純粋に党派的な手段と化す危険性がある。つまり、与党議員は政府を肯定的に反映する質問をし、野党の政治家は政権を担う政敵に対して政治的利点を得るためだけに質問をするということである。
特に口頭質問は、議会日程の中でも注目が集まるため、政治家が政敵の評判を犠牲にして自らの立場を最大化しようとする『パフォーマンスの場』と化す危険性がある。
このような『政治劇』は面白いかもしれないが、こうした過度に党派的なやり取りは、国民の代表あるいは政府の監視という点において、実質をほとんど提供しない」













