「戦争に入るという判断だ」と感情的に叫ぶだけ

立憲民主党議員は「戦争に入るという判断だ」と感情的に叫ぶだけで、存立危機事態の認定基準やシミュレーション、あるいは抑止力を高めるための具体的な防衛政策といった、本来議論すべき「実質」から逃げている。

小泉防衛相が指摘したように、彼らが「『軽々に言うべきではない』」のか、「『より詳細な基準などを設けて事態認定などをすべきではないか』」なのか、その立ち位置すら不明瞭である。

「質問がレベル低すぎ」で勃発の立憲民主不要論…国会議員質問コストが1分約8万円なら「奈良の鹿」質疑15分=120万円の衝撃!_3
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この安全保障という「実質」ある議論への対応能力の欠如は、驚くにはあたらない。先の衆院選後、立憲民主党は維新や国民民主党との連携を模索したが、まさに安全保障政策をめぐる溝によって破談となった。現実的な政策を構築する能力を彼らは持たない。

だからこそ、彼らに残された道は「撤回しろ」と叫んで議事を妨害することだけである。それは、議論する能力を失った者たちの断末魔なのだ。

これは、立憲民主党が「実質」ある議論を行う能力を、そもそも有していないことの証左である。

些末なゴシップで時間を浪費するだけでなく、国家の存立に関わる重大なテーマにおいても、彼らは「パフォーマンス」としての追及しかできない。

議会は劇場ではない。国民の税金によって運営される、極めて高コストな意思決定機関である。その貴重な時間を、鹿やクマの話題で浪費することは、国民に対する背信行為だ。

パフォーマンスと地元回りだけに精を出し、国家の未来を考える能力も意志も欠如している。奈良の鹿から聞くべき話が何もなかったのなら、そのような立憲民主党議員は国会に不要である。

立憲民主党議員の無益な「パフォーマンス」は、民主主義の根幹を揺るがす税金の浪費に他ならない。1分約8万円という国会コストを考えれば、「奈良の鹿」の質疑15分は120万円をドブに捨てたに等しい。

彼らがすべきはゴシップ追及ではなく、地道な調査に基づいた「実質」ある政策論争だ。国民は、国家の未来を真剣に議論する政治を求めており、パフォーマンスと妨害に終始する野党は不要という世論の厳しい審判は、極めて当然の帰結と言えるだろう。

文/小倉健一