解散記念アルバムは50枚ほどしか売れなかった

『帰ってきたヨッパライ』の原曲は、そんな加藤と松山が二人で作った楽曲のなかにあったものだった。

1967年にフォークルが解散を決めた時、北山のアイデアで記念アルバムを作ることになった。ただし、スタジオでのレコーディングは経費が高くつくからという理由で、ラジオの公開番組に出演した際に録音したテープを借りて、全体の半分はライヴ音源で埋めることにした。

1967年にプロ・デビューをしたフォークルだが、活動期間はわずか1年。写真は『フォークルさよならコンサート』(2008年10月22日発売、UNIVERSAL MUSIC JAPAN)のジャケット
1967年にプロ・デビューをしたフォークルだが、活動期間はわずか1年。写真は『フォークルさよならコンサート』(2008年10月22日発売、UNIVERSAL MUSIC JAPAN)のジャケット

そして残り半分だけ、オリジナル曲をレコーディングするつもりだった。ところがアルバムに入れる曲が足りなくなり、遊びで作っていた『帰ってきたヨッパライ』の出番がやってくる。

そのユニークな歌のモチーフとなったのは、『ヒルビリー天国』という楽曲だった。ジミー・ロジャースやハンク・ウィリアムスなど、亡くなったヒルビリーのスターたちに会って楽しいひとときを過ごしたが、それは夢だったという内容の歌詞だ。

松山がそれを下敷きにして、死んでしまった男が天国から追い返される歌詞を書いた。当時は急速なモータリゼーションの発達で、交通事故が多発して社会問題になっていたので、時代背景に使ったのだ。

そこに北山がビートルズの『ア・ハード・デイズ・ナイト』の歌詞をお経にし、木魚を叩きながら唱えるなどのアイデアを加え、曲が形作られていった。

テープの早回しは、僕の思いつきだった。その頃はビートルズがインド狂いをしていた時代で、海外ではサイケデリック調の音楽が流行し始めていた。(中略) そういったエキセントリックな曲の影響受け、独自の音を作りたいと思っていたのだが、アマチュアだから器材がない。せめてということで、テープを早回してみたのである。当時シンセサイザーがあったら、きっと使っていただろう。(加藤和彦)

全米進出の後に公開された初主演映画のサウンドトラック『ハード・デイズ・ナイト』(2013年11月6日発売、UNIVERSAL MUSIC JAPAN)のジャケット。全曲レノン=マッカートニーのオリジナル作品だ
全米進出の後に公開された初主演映画のサウンドトラック『ハード・デイズ・ナイト』(2013年11月6日発売、UNIVERSAL MUSIC JAPAN)のジャケット。全曲レノン=マッカートニーのオリジナル作品だ

京都の大学生だった加藤和彦や北山修を中心に結成されたフォークルは、1965年から2年ほどの活動を経て、メンバーが就職活動するなどの事情から解散することを決めた。そして1967年10月25日の『第1回フォークキャンプコンサート』に出演したのを最後に解散した。

このとき、解散記念に自主制作したアルバム『ハレンチ』を販売したが、50枚ほどしか売れなかった。在庫の山に困った北山が宣伝のためにとラジオ局に持ち込んだ。それから神戸のラジオ局のディレクターが『帰ってきたヨッパライ』を“発見”し、東京にも飛び火してレコードが大ヒットを記録していくのである。

交通事故で死んだヨッパライが「オラは死んじまっただ」と唄う、ナンセンスでコミカルな歌には、どこかに社会風刺のエッセンスが込められていた。それをテープ再生で作られた“変な声”で表現したり、最後にビートルズのヒット曲をお経にして詠み上げたり、プロでは到底考えつかない遊びのイマジネーションだった。

フォークル解散後、1969年に加藤はソロに転向。1971年4月に北山とのコンビでシングル『あの素晴しい愛をもう一度』(キャピトル)を発売
フォークル解散後、1969年に加藤はソロに転向。1971年4月に北山とのコンビでシングル『あの素晴しい愛をもう一度』(キャピトル)を発売
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こうして社会現象を起こすほど大きな話題を呼ぶことになるフォークルは、加藤と北山に、はしだのりひこを新メンバーに加えて、1年間だけの活動という約束でメジャー・デビューを果たす。

彼らは偶然にヒットを当てたラッキーなグループではなく、フォークとロックが主導する「新しい音楽の時代」を牽引する革命児だったことは、“ミュータント”であった加藤和彦のその後の音楽人生が、何よりも物語っている。

偉大なる先駆者の仕事は、これからも後世に語り継がれていくだろう。

文/佐藤剛 編集/TAP the POP

参考・引用
きたやまおさむ『コブのない駱駝』(岩波書店)
「加藤和彦読本」音楽出版社