身の回りの品をリヤカーに乗せ、運び出す人で大混乱(こんらん)

治男さんは言います。

「立ち退()き命令は、進駐(しんちゅう)軍のジープに米兵と一緒(いっしょ)に乗っかった日本のおまわりさんが、言って回ってたね。

だからとにかく、運べるものを早く運び出さなきゃと、(みな)必死だった。同時に、運び出したものを(現在の空港の外側に)置く場所も(さが)さなきゃならない。周囲では混乱(こんらん)する人たちの怒鳴(どな)り声も聞こえたよ。『そんなもの持って行ったって置けねえぞ』とかね。

父はアナゴやアサリ、ハマグリをとる漁師で、持っていた船が幸い焼けなかったから、とりあえずその船やリヤカーに、家にあった荷物を乗せて運び出したね」

写真はイメージです(PhotoAC)
写真はイメージです(PhotoAC)

治男さんの家は、その年の4月15日の空襲(くうしゅう)で焼かれ、近くの鈴納(すずのう)稲荷(いなり)神社の中にバラック(一時的な小屋)を建てて住んでいました。だから荷物といってもそんなに多くはありません。

台所道具、布団、服など、毎日使うものを急いで運び出したと言います。

「台所の大きな中華鍋(ちゅうかなべ)を運んだことを、なぜかよく覚えてるね。それから、(ひな)人形や五月人形は持って行けないから、外に出しておいたら、見回っていた進駐(しんちゅう)軍の兵士が全部持って行っちゃったよ」

こうして48時間が過ぎても混乱(こんらん)は続き、持ち物を取りに帰る人が後を絶ちませんでした。

そこで町の代表者たちが再度交渉(こうしょう)し、今後一週間の日中に限り、三町(鈴木(すずき)町・穴守(あなもり)町・江戸見(えどみ)町)への出入りが許可されました。

三町の中へ(もど)り、自分の家やバラック、空き家になった旅館などを(こわ)して、板材やトタン、建具を持ち出す人が多かったと、治男さんは言います。

写真はイメージです(PhotoAC)
写真はイメージです(PhotoAC)

穴守(あなもり)町には大きな旅館や店があって、それを(こわ)した材料があるからと聞いてね。父ともらいに行って、海老取(えびとり)川の西向こうに積んでおいたんだよ。でも、いつの間にか(だれ)かに持って行かれて、なんにも無くなってたね」

まさに「ドサクサ」としか言いようのない状態だったのでしょう。

突然(とつぜん)退去(たいきょ)命令、翌日(よくじつ)から住む場所をすぐに見つけられない人も多かったに(ちが)いありません。親戚(しんせき)(たよ)って羽田を(はな)れた人もいましたが、(たよ)る当てがない人たちは、とにかく身の回りの品を海老取(えびとり)川の西側に運び出しました。

多くの人の荷物が道の両側に山と積まれ、ある家族は神社の縁側(えんがわ)の下で、ある家族は稼業(かぎょう)海苔(のり)()し場にバラックを建てるなどし、それぞれ仮住まいを始めたのです。

退去(たいきょ)命令は日本の警察(けいさつ)を通じて口頭で伝達されたため、当時の蒲田(かまた)区長が、「家屋立退証明書(かおくたちのきしょうめいしょ)」を発行しています。

当時、その証明書を受け取った一つの家族があります。

1920年に羽田で生まれ、穴守(あなもり)稲荷(いなり)神社門前の「横山せんべい」四代目店主、写真家でもあった横山(よこやま)宗一郎(そういちろう)さん(故人)は、自身の写真で構成した本の末尾に、当時の体験を書いています。

穴守稲荷神社(PhotoAC)
穴守稲荷神社(PhotoAC)

少年時代に大空への(あこが)れを(いだ)いた横山さんは、親に内緒(ないしょ)で陸軍航空隊を志願しました。終戦を(むか)えた時は、調布飛行場から戦闘(せんとう)機「疾風(はやて)」に搭乗(とうじょう)し、東京を守る任務に当たっていました。

「内地にいた私はすぐに復員できたが、穴守(あなもり)の町は空襲(くうしゅう)で焼け野原と化していた。父と母と三人でバラックを建ててホッとした矢先、進駐(しんちゅう)軍からの緊急(きんきゅう)立ち退()き命令が伝達された。移転は九月二一日と二二日の昼間だけだという。私たちは夢中で焼け残った荷物をまとめると、海老取川を(わた)った。さいわい羽田猟師(りょうし)町には小学校の同級生が多く、あれこれ親身になって世話してくれたおかげで、やっと家業のせんべい屋を再開することができた」
宮田登(文) 横山宗一郎(そういちろう)(写真)
『ビジュアルブック 水辺の生活() 空港のとなり町 羽田』(岩波書店)

同じページには横山さんの家族が受け取った「家屋立退(たちのき)証明書」の画像が()せられています。