「家はもうねえぞ。空襲で焼けちゃって」
当時の同様の混乱を、同じく羽田で生まれ育った氏江勉さん(89)も話してくれました。
羽田鈴木町に住んでいた勉さんが、疎開先の秋田から羽田へ帰って来たのは、強制退去命令が出た3日後、9月24日のことでした。
「疎開先に迎えに来てくれた親父に『家はもうねえぞ。空襲で焼けちゃって』と言われたけど、帰って来てみたら本当に何もなくなっていたね。
上野駅から国鉄に乗って蒲田駅で降りた時、辺りはとにかくなんにもなくなっていたのに驚いたね。見渡す限りの焼け野原で、地面にはコンクリの塊がボコボコとあるだけ。
そこから京急線の蒲田駅まで、闇市みたいな、食べ物を売る店が何軒か並んでる道(後の『のんべ横丁』)を歩いて行く道すがら、焼けたトタンで囲った一角があった。前は自動車練習所だった場所だけど、吐き気がするような酷い臭いが漂っていてね。
一緒に歩いていた親父に『何、この臭い?』と聞いたんだが、何も答えなかった。
後で知ったんだが、空襲で亡くなった人たちの焼死体をそこに集めて置いてあったらしい。遺体を焼く火葬場も燃料もないから、そこへ置いていたと。しばらく忘れられない、ものすごい臭いだったよ」
焼け野原に変わり果てた故郷に帰って来た時、勉さんは羽田第三小学校(戦時中の名前は東羽田国民学校)の四年生。強制退去にあった住民がその後、一週間の猶予を与えられ、持ち物を日中取りに帰っていた時でした。
4月の空襲で家が焼かれるまで、勉さんは祖父・仁助さん、父・力蔵さん、母・ヤエさん、兄・敬さんと二人の妹の計7人で羽田鈴木町に住んでいました。家は海老取川のほとりにあり、祖父と父は自前の船でセイゴ、ハゼ、サワラなどを捕る漁師でした。とりわけ高級魚だったサワラが捕れたという自慢話を、祖父や父からよく聞かされたものでした。
戦前の羽田は、穴守稲荷神社や海水浴場、競馬場や料亭があり、芸者遊びなどをしに来る旦那衆や歌舞伎役者、潮干狩りに来る女優などでにぎわう東京の一大観光地でした。
夏は特に釣り船を目当てに観光客が多く来ました。氏江家は三艘あるうちの一艘を使い、近隣の漁師の家と同様、日曜日には釣り船として観光客を乗せました。10人ほどが乗れる、エンジン付きの木造船でした。
氏江家の釣り船では、延縄で捕ったばかりのハゼやセイゴを船上で天ぷらにし、魚の骨で出汁をとったつゆと一緒にお客さんに出して食べさせます。
そんなにぎわいのあった戦前の羽田の夏。泳ぎが得意だった勉さんは、小学校に上がる前から、毎日海老取川を向こう岸まで往復して泳いで遊んだと言います。
「戦争ですべてを失うまでは、平和でまるで天国みたいな生活だったよ」
天国から地獄へとはこのことでしょう。
氏江家は空襲と強制退去により、家も船も稼業も、天国のように平和だった日常も失ったのです。
文/中島早苗