気難しさが増すも音楽家として円熟した晩年
この手紙を境に、ベートーベンの音楽は非常に使命感を帯びたものへと変化していきます。
一方で、性格はさらに気難しく、疑り深いものへとなっていきます。かつては女性との関係に積極的で、結婚に対する憧れも持っていました。しかし、聴力が完全になくなる頃にはそれもあきらめてしまいます。
そして、その気持ちは甥のカールの養育権へと向かっていきます。
ベートーベンは弟のカールが亡くなった後で、弟の息子であるカールの養育権をめぐってその母親と激しく争うことになるのです。ベートーベンのカールへの執着ぶりはかなりのもので、カールの交友関係にまで口出しし、さらに甥に対して嫉妬までしてしまいます。
カールは、こうした苦しみから逃れるためか、ピストル自殺を図り、なんとか一命をとりとめますが、これはベートーベンにも大きなショックを与えることとなりました。
難聴を境に気難しさが増したベートーベンでしたが、その一方で亡くなるまでカリスマ的な人気を誇ります。次から次へと素晴らしい作品を発表するベートーベンの才能は、もはや誰の目にも疑いようがなく、多くの人がベートーベンと交流を持つのは価値があることだと感じていたのです。
ハイリゲンシュタットの遺書の後で生きる決断をしてから、ベートーベンは「ピアノ協奏曲第5番」や「ヴァイオリン協奏曲」「ピアノソナタ『熱情』」「交響曲第5番『運命』」といった傑作を次から次へと生み出しました。
そして晩年には「ミサ・ソレムニス」、さらには「交響曲第9番」といった音楽史に残る傑作が誕生し、後の時代の作曲家たちにとって超えるのが容易ではないほどの芸術的な高みに到達しました。
ベートーベンは晩年、肝硬変になり、ベッドでの生活を強いられますが、見舞いの客が途切れることはありませんでした。ベートーベンはその病が原因で、56歳で亡くなります。埋葬式には1万人もの人々が参列したと伝えられています。