家族の物語を語り始めるまで

2018年、市原はSNSで「PTSDの復員日本兵と暮らした家族が語り合う会」の活動を知った。「これは大事なことだ」と直感した。しかし同時に、ある感情が湧き上がった。それは、反感に近いものだった。

活動を始めた黒井秋夫に対してこう思った。戦争帰りの父が無気力になったり、酒を飲んで暴れたりするなんて、特別な話じゃない。どこの家でも多かれ少なかれあったことだ。人前で話すようなことか。いまさら打ち明けて、何の意味があるのか、と。

市原は、その時の気持ちを「心のどこかで、自分が追及されているように感じた。嫌だったんです」と振り返る。

写真はイメージです(写真/Shutterstock)
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転機は妻の死だった。2023年の春、妻は末期の大腸がんと診断された。末期がん患者の苦痛を和らげるホスピスの入院費は月30万円かかった。タクシー運転手として働く市原の稼ぎだけではまかなえず、亡くなるまでの9カ月間を自宅で一緒に過ごした。

死にゆく妻を見続けていると、「人間の死」そのものを見つめ直すようになっていた。すると、死んだ父のことが頭に浮かんだ。「父のことを知らなければいけないと思ったんです」と市原は語る。

父の軍歴証明書を取り寄せ、「死の鉄道」のことを知った。加害の片棒を担いだであろうことを想像した。「父の心の苦しみは、どんなものだったのか」と考えるようになった。

妻の死の半年後、「語り合う会」に足を運び、経験者としてマイクを握った。悶々としていた思いが、ようやく少し楽になったと感じた。

それからは毎月の例会には必ず顔を出すようになった。2024年の秋には、東京都内で開かれた集会で登壇した。「私たちの経験を、家の中で話すのではなくて、公の場で語り合いましょうよ。そして、最後は父と和解して死んでいきましょうよ」。そう市原は語りかけた。

自分が妻に振るった暴力についても、聴衆の前で隠すことなく打ち明けた。「暴力の連鎖はすさまじいものがあります」。市原は声を震わせ、言葉を継いだ。

「連鎖をどうやって断ち切るか。それを学んで、私は人生を終えたいです」

文/後藤遼太、大久保真紀

『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』 (朝日新書)
後藤 遼太 大久保 真紀
『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』 (朝日新書)
2025/6/13
1,045円(税込)
320ページ
ISBN: 978-4022953216
戦後80年、元日本兵の子や孫がようやく語り始めたことがある。戦争トラウマだ。
過酷で悲惨な戦場を経験した元兵士の多くが心を壊した。悪夢、酒浸り、家族への暴力……壊れた心が子や孫の心もむしばんでいく負の連鎖。
隠された戦争の実相に迫る。 
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