「戦友というか、仲間というか」同期歌手の存在
――松本さんはデビュー曲「センチメンタル・ジャーニー」のイメージが強いとは思いますが、尾崎亜美さんが作曲を手掛けられた時期(1983年~1984年)や、 “恋愛三部作”など様々な楽曲を歌われてきましたよね。
恋愛3部作は、アレンジは船山先生、曲は林哲司先生、作詞は川村真澄さんにお願いしたんですけど、その辺りから歌に対して自由に発言できるようになりました。
それまでは、例えば、「B面の曲の方が好きなのにな」と思っても、違う曲がシングルになったりと、自分の意見が通らないこともあったんですけど、ちょっと大人になっていくなかで、曲調も変化させたいという、自分の強い思いもあったりして。
ディレクターさんと話ができるようになった20歳ぐらいから、歌に対してさらに希望を持ち始めたんですけど、一方でそれが数字に繋がらなかったりと色々な事情もあって…。
だんだんレコードも出せなくなり、コンサートもしないという感じに…。その後、結婚、子育てがあって、ソロコンサートをできない時期が20年ぐらいありました。
松本は、1991年リリースのアルバム『マリアージュ〜もう若くないから〜』以降、音楽活動の機会が減っていた。CDのリリースは2005年、同期デビューの早見優・堀ちえみとともに結成したママドルユニット「キューティー★マミー」から再開する。
――どのようなきっかけで、再び歌うようになったんですか?
まず大きなきっかけの1つは、同期の優ちゃんとちえみちゃんですね。
歌から完璧に離れていたというわけではないのですが、実は1人で歌うのってどうなんだろうって、ちょっと思っていた時期があったんです。1人で飛び出していこうっていうエネルギーや気持ちが出なかったというか。
テレビで、「センチメンタル・ジャーニー」を歌ってください、とお話をいただいた時も「どうしよう」と悩んだり。ヒロミさんに相談して「歌うべきだ」と言ってもらって、歌ったりしていました。
そんな時に「キューティー★マミー」のお話があったんですが、これは私1人じゃなくて、優ちゃんとちえみちゃんがいたからできた感じですね。3人ならちょっと気持ちが楽に歌えるって思えたんです。
――早見さんとは「キューティー☆モリモリ」(松本、早見、森口博子の3人で結成されたユニット)でも一緒に活動されていますが、何か言葉をかけてもらったことはありますか。
優ちゃんは常に意欲的なので、私が「もうやめようか…」と弱気になると、「なんでやめちゃうの?」とか、「伊代ちゃんがいなくなったら、私も歌えなくなっちゃう」みたいに嬉しいことを言ってくれます。戦友というか、仲間というか、同期なので安心するんですかね(笑)。